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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.32 第五章
けっこう長い間、彼女を見つめてしまったと思う。あの、と少し照れた表情で眉をひそめて、再び声をかけられるまで、カケルは自分が彼女を見つめ続けていることに、気づかなかった。
あんなに人の顔をじっと見る人、初めてだったわ。つき合い始めて彼女がそうこぼしたとき、カケルは臆することなく、言葉を返したものだ。あのときは、このまま笑顔のこの人を家に持って帰って壁に飾りたい、って思ったんだ。それ、つき合う前に聞いてたら、ちょっとひいてたかも! 現実的で冷静な彼女は、そう言って、でもまんざらでもないという風に笑った。それから、こう言ったのだ。
それじゃあ、まるで私が絵みたいじゃない。
恋の始まりに交わされていた、明るく好意的な二人の会話が、全く反対の意味を孕んで迫ってくるとは、誰が想像しただろう。
美しくて、心に温かいものがわき起こってずっと見つめていたかったもの。それは、一緒に生活する、という点においては、何だか微妙にそぐわないものだった。彼女は、いつもきちんとしようと努めていた。部屋を清潔に整えて、バランスのとれた見た目にも美しい朝食を出してくれた。不快だったことは、何もない。大げんかも、あまりした覚えがない。むしろ、仲は良かったんじゃないかと思う。
そこに、決して埋めることのできないすき間を見つけるまでは。
一緒に暮らし始めて半年も経ったころから、彼女は休日もほとんど出かけるカケルに、不満を漏らし始めた。
いつも一緒にいてほしい。寂しい。そんな平凡な言葉が、彼女の口から出てくるとは、思いもしなかった。美しいものが好きで、鋭い感性を持っていますね、と声をかけてきた彼女。
そんな彼女が、束縛感あふれる普通の言葉を言っている。結婚前は、一緒に映画を観て感想を言い合ったり、美しい絵を観たり、音楽に触れたり。そういうことでとても満足そうにしていたのに。
カケルは、結婚というものが女の子を変えてしまうのだ、ということを、身を持って知った。
フツーに休日に家に居て、フツーにパパになってくれそうな。やっぱり、女ってのはフツーの家庭、フツーの生活をそうも求めるんだろうか。でも、フツーって何だ? おれは規格外ってことか?
両親が離婚して、いわゆる普通の家庭に育っていないカケルには、彼女の理想にひっかかるものがなかったとは言えない。
慌ただしく結婚式場にかけつけたカケルの母に、彼女は冷ややかな視線を投げかけた。その、射るようなまなざしが忘れられない。
彼女は、理想的な奥さんだね、と、よく言われた。その理想的な奥さんは、壁にかけて鑑賞するためのもののように思われた。それは、眺めていて気持ちのいいもの。そして、簡単に触れてはいけないもの。一定の距離を保ってこそ、良い関係が保たれるものなのだ。
手にとって、存分にいじってみたり、味わったり、愛おしむものではないのだ。
そして、結婚してからもうすぐ三年目という初冬。決定的なときは訪れた。
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