見出し画像

【連載小説】「青く、きらめく」Vol.36 第六章 風花の章

 もし、手に缶コーヒーを握っていなかったら、その手でマリを抱き寄せていたかもしれない。
 好きだった人になった、と言い切って結ばれた口は、でも、まだ、ひょっとしたら好きなのかもしれない、という気持ちがこぼれてしまうのを喰いとめているかに見えた。それは、単なるうぬぼれだったかもしれない。けれど、揺れる気持ちが彼女の潤んだ瞳に映りこんだとき、たまらない愛おしさがこみ上げてきたのだ。
 反射的にカケルはベンチから立ち上がると、缶コーヒーを上着のポケットに突っ込み、マリの手を引っ張って歩き出した。
「ちょっと、どうしたの」
 それには答えずに、ずんずん歩いた。特にどこへ連れて行こう、と思ったのではない。ただ、マリの手を引っ張って歩きたかった。誰かを奪って、そのままこの場所から連れ去りたい。そして、彼女はずっと自分とともに歩いて行くのだ。

 荒涼とした校舎裏の雑木林まで来たとき、やっとカケルは歩をゆるめ、マリはその手を振りほどいた。
 ここなら誰も来ない。振り返って、マリを見た。マリも自分も、大きく肩で息をしていた。冬の初めの弱い木漏れ日の中で、マリの輪郭が淡く光って見える。カケルは、彼女を抱きしめようと、一歩近づいた。
 しかし彼女の目からは、先ほどの揺らぎが消えていた。そして何か敵を迎え撃つかのような鋭い目に変わっていた。

 このとき、はっきり分かった。カケルには、もう彼女を抱きしめてキスすることも、連れ去ることもできないのだ、ということが。
 整わない息のまま、マリは言った。
「距離を置きたい、ってことは、あなたと一緒には行けない、ってことよ」
 いく分か、息が整い、彼女の目は少しだけ優しくなった。
「私にかけようとしてたんじゃないんでしょ。電話」
 マリが現れる前の自分に、ゆっくりと思考が戻っていく。
「自分が本当はどうしたいのか、本当はあの役を誰でやりたいのか、よく考えて」

 マリと別れて、部室への暗い廊下を一人歩く。マリの言葉が頭の中を巡っている。扉を開けた。正面の壁に、少女の白い衣装がかけてあった。
 サテンの真っ白いワンピースに、白いファーと鳥の羽根がふちどられている。扉を開けた瞬間、白い羽根がかすかに揺れた。こんな小さな風でも、感じるんだな。カケルは、ゆっくりと壁に近づいた。静かに、衣装に手を伸ばす。白い羽根は、カケルの指先が触れるより先にかすかに震えた。
 初めてラストを演じたとき、泣き出して飛び出て行ってしまった美晴。料理を作ってくれたあと、振り向かないでそっと去っていった美晴。彼女が自分を解放するのは、おそらく演技の上だけで、日常ではいつも控えめだった。いつか彼女が自分の背中で歌っていた歌が脳裏に浮かぶ。私は自分が大きらい。ちがう自分になりたいの。
 はっとした。あの子は、何かに囚われているのではないか。そんな考えが、カケルの中へ舞い降りた。カケルは、雷に打たれたように、突然部室を飛び出した。きっと、そうだ。何かにしばられて、閉じ込められている。本当のことが言えずに。そう、自分の気持ちはひと言も発することができない、舞台の少女のように。きっと、そうだ。降ってわいた考えは、やがて確信に変わり、カケルは大学構内を駆け抜けた。法学部の教室を見て回る。友人達としゃべりながら階段を下りてくる由莉奈を発見すると、そのままの勢いで走りついた。
「由莉奈!」
 肩に手をかけると、息を切らせて続けた。
「部員の、名簿、あっただろ。今、持ってる?」
「う、うん、確か」
「あれ、見せて」
 カケルの迫力に気おされて、由莉奈は、がさごそとカバンをあさった。渡されるより早く、奪うようにその名簿を見た。強制ではないが、実家の住所も書くようになっている。男の部員は面倒くさがって書かない奴が多いが、女の子はわりと生真面目に書いてあることが多い。
 北海道。旭川市。カケルは名簿に目を走らせて、美晴の住所欄を認めると、携帯で写真をとって由莉奈に名簿を押しつけるように返した。
「な、何、どうしたの」
 階段を駆け下りながら、カケルは踊り場で一瞬立ち止まった。
「連れ戻してくる。あいつを」
 それから、由莉奈の方を見上げて、こう付け加えた。
「あと、ラストの花びらは白い羽根に変えてくれ」
 それだけ言うと、もう振り返らなかった。後ろの方で、部費、追加で徴収するからねーっ! と叫ぶ由莉奈の声が聞こえた。

 現実的にどんな道をたどったのか判然としない。電車をいくつも乗り継いで空港から飛び立ち、市内へ向かうバスに今、揺られている。北へ。日はすでに暮れてしまい、外は真っ暗闇だった。窓へつぎつぎと張りついてくる雪、また雪。それをぼんやり眺めながら、ふと、子どものとき初めて見た雪を思い出した。部屋の中は暖かで、何の心配もいらなくて、ただひたすら次々と落ちてくる雪を眺めていた。すべての音が雪に吸いこまれていくみたいで、とても静かだった。いつも聞こえてくるアパートの隣のテレビの音も、その日は聞こえなかった。母は、夜の仕事も行かなかった。
「このまま、ずーっと雪が降り続いたら、お母さんお仕事、ずーっと行かない?」
 母は隣に並んで一緒に雪を見ていた。
「そうね。それは困っちゃうわね。食べていけないなぁ」
 しばらく雪を見てから、母はさっきより少し小さい声で言った。
「でも、それもちょっといいな。もしそうなったら、ずーっとカケルといる」
 幼心にちょっぴり心配になって、カケルは母の顔を見上げた。
「じゃあ、どうやって食べていくの?」
「雪」
 母は急に目を輝かせた。
「毎日、雪ばかり食べて生きていくの。かき氷みたいにして」
「えー。それは、やだなぁ」
 そう言ったカケルのほっぺたを両手でぎゅっと挟んで、母は少女みたいに笑った。
 それだけで、よかった。忘れていた、とても幸せで満ち足りた記憶が、よみがえってきた。見知らぬ土地で雪に見舞われ、カケルは自分が子どもに帰っていくような、不思議な感覚を覚えていた。窓に映る自分の顔は、いつしか子どもの顔になっていくようだった。あいつは今、どんな気持ちでいるんだろう。ふとそう思った。子どもになった自分が、ひたすら雪の降る中バスに乗っている。北へ。自分は、傷ついた小さな子どもを胸に抱えて、旅に出てゆく。

   ***

Vol.35へ戻る)         (Vol.37へと、つづく…)


読んでくださって、本当にありがとうございます! 感想など、お気軽にコメントください(^^)お待ちしています!