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【連載小説】「緑にゆれる」 Vol.42 第六章


   第六章

 企画のことも、これからのことも、まるで頭の中から追い出すように、カケルは日々、鎌倉の土地を歩き回った。昔から変わらぬ山々を。穏やかに波が寄せる海を。曲がりくねった路地裏を。そうするうちに、働いていたときとは違う感覚が、自分の中に生まれてくるのを感じた。

 葉のきらめきにしても、波の崩れる様子にしても、何か、くっきりと見える。最初は、天候のせいかと思っていた。けれど、曇天の下、苔むした庭を踏みしめていても、何かくっきりと心に残る。その静けさ、だったり、足のうらが感じたやわらかな感触だったり。

 深呼吸を、忘れていたんだな。

 豆も、呼吸するんですよ。ふくらんだり、下がったり。人生といっしょ、と言ってかすかに微笑んだ美晴の言葉を思い出す。

 定休日、今日は、ちょっと鎌倉の奥まで行くんです、と美晴が言う。

「天然酵母のパン教室があってね。そこへちょっと習いに行くんです」

 天然酵母。店の売り文句では聞いたことがあるが、味がどう、とか普通のパンと何が違うか、ということまでは、よく分からない。
 ガイドブックをめくると、店周辺は、まだ足を延ばしたことのない土地だ。その先の山奥に、寺がある。何となく気になった。
「おれも行こうかな」
 駅からバスに乗ったあと、少し歩くという。二人で、バスに揺られて十数分。終点で降りた。
「こっちです」
 美晴が、右の曲がり角へ向かう。終わりかけのあじさいが彩っている石壁の道を、二人で歩いた。昨日までの雨に濡れて、鮮やかに光っている。
 
 こんなところにパン教室なんてあるのか、と思ったが、美晴の目指したその建物は、住宅と茂る緑の中にこつ然と現れた。
 こんな所まで習いに来る人がいるんだ、とつぶやいたら、教室は月に数回しかやっていなくて、いつも満席なんですよ、と言う。そっとガラス越しに中を見たら、様々な年齢の女性たちが所せましとチェアに肩を寄せ合って座っていた。

「じゃあ、私、ここから二時間はかかりますから。もしも二時間後に落ち合えたら、焼き立てのパン、一緒に食べましょう」

 そう言って、美晴は屈託なく笑った。


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