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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.48 第六章


 そこまで言うと、遠慮がちに、こちらを見た。哀しみの色はもうない。何か愛おしむような、まぶしそうな瞳が、かすかに揺れている。

「圭が生まれてきて、もみじに手をかざして伸ばしたその手が、またもみじに似ていた。手が、透けて見えるの。太陽の光を受けて、ほんのり赤く、透き通って見えた。私、見とれてしまった。ひらひら、ひらひら、風の中でふるえる手ともみじを。あぁ、生きているなぁ、私も、この子も、もみじも。生きているなぁ、って」

 頭上のもみじが、光に透けて黄緑に輝く。いくつにも重なる葉は、無数の赤ちゃんの手だ。ここにいるよ、ここにいる、と言葉にならない声で語りかけてくる。

「圭って名前、本当は、くきの茎ってつけたかった。こう、植物が真っすぐ上へ上へ伸びていくイメージ」

 そう言うと、美晴は、思い切り腕を上へ伸ばした。届くはずもないのに、頭上の青いもみじに触れようと、精一杯。あ、とバランスを崩して伸ばした手をがくっと下ろす。

「あと少しで届きそうなのに」

 無邪気な彼女の表情の中に、大人の表情が混じる。

 ひかれ合って、男は彼女の中に種を残し、それを流すことなく、育て生みだした彼女。結婚するとか、しないとか、そういう規則にのっとった関係とは全く別の、しかし深いつながりが、二人の間にはあったのだ。

 自分と、里伽の間には、どれほどのつながりがあったんだろう。そう思うと、とたんに虚しくなった。

 彼女は、おれよりずっと深い大切なものを経験したのだ。おそらく。

「誠実なひとでした。すごく優しくて、一緒にいると癒されて。でも、たったひとつ、彼はうそをつきました」

 彼女の目が、光るのを見た。

「奥さんと話をつけて帰ってくる、って言ったけど帰ってこなかった」

 二人の周りの空気は、凪いでいた。その美晴の言葉に対して、何も、言うべき言葉が見つからなかった。

「そのうそも、結果であって、最初からつくつもりじゃなかったと思うんですけどね」

 美晴は、食べ終わった容器を片付けながら言葉をつなぐ。

「本当は、私、分かってたのかも。彼、もう私のところへは戻ってこないって。きっと、奥さんのところへ戻ると思う、って。やさしい人だから」

 美晴は、わざとこちらを見ないようにしているのか、手元ばかりに目を注いでいる。

「だけど、私、悪いんです」

「何が?」

 聞き返すと、軽く笑いながら言った。

「巻き上げているんです」

 カケルは、笑えなかった。

「巻き上げ女なの。悪いでしょ」

 全然、悪そうじゃなく、彼女は言った。言葉とは裏腹に、むしろ健気すぎて壊れそうだ、と思った。

「断ったんだけどな。どうしても、って向こうが言うから」

 さっきより、ずっと小さい声の言い訳だった。手だけ懸命に動かしながら、想いの先を、どこへ向けていいのか持て余している。ほっと小さくため息をついて、緑を見上げたその瞳は、遠く離れてしまった人の面影を探して揺れている。


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