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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.4 第一章

 美晴が秀幸さんの一人暮らしのマンションのキッチンに立ったのは、それからさして時を経なかった。もちろん、お互い恋愛感情があったわけではない。キッチンスタジオの最寄り駅近くに、彼のマンションがあったことも、大きなきっかけだっただろう。料理を教えながら一緒に作って、一緒に食べる。ただその目的のために、美晴はたびたび、彼を訪ねるようになった。彼も、ひとり。自分も、いつもひとりでごはんを食べていた。一緒に作って食べる、という行為を、美晴もどこかで強く求めていたのだ、と思う。
 
三十七歳の秀幸さんは、自分よりずっと大人で、落ち着いていて、安心できた。年のはなれた従兄のお兄さん、って感じ、と思ったりした。実際、向かい合って食卓に座る感じは、そうだったと思う。いちいち、おいしい、と言ってから、秀幸さんは、きみの彼氏やだんなさんになるひとは幸せだね、と言った。そうですか? そう言ってから、そんなことが自分にこの先あるのかな、とつぶやくと、あるよ、と言って優しく笑った。

 学生のときも、社会人になってからも、きちんとだれかとつき合ったことがない美晴にとっては、それはどこか別の世界の人たちが行っていることみたいに思えた。

 自分はいつごろから、その世界からはじかれてしまったのだろう。
 ふと、仄暗い感情が胸をよぎる。

〝色目つかって〟

 中学生の時、祖母からささやくように言われた言葉が胸をちくりと刺す。あれは、確か法事か何かのときだったか。

 その頃から、男の人と距離を縮めることを、自然と避けるくせがついた。男の子に対しても、同様だった。男の子を男と意識しないように。いつも明るく、公平に。それは、同時に自分が女の子であることを意識しない、というスタンスに身を置くことになった。髪は伸ばさない。ミニスカートもはかない。女として目覚めることから、無意識のうちに目をそらす。そんなくせがついた。

 だから、最初、帰るときに、秀幸さんが駅まで送る、と言ってくれたとき、美晴は一瞬とまどった。初めて、女の子扱いされたことに。

 慌てて、いい、と言った。けれど、念を押すように彼は言った。女の子一人だと危ないから、と。
 その言葉は、美晴のほおを知らず知らずのうちに上気させ、心にぽっと明るい灯をともした。

 「今日は、少し遠まわりして行こう」

 四月のある夜、秀幸さんは言った。
「歩いて行けるところに、すごくいいお花見スポットがあるんだ」

 ちょうど、桜が満開のころだった。夜の並木道は、そぞろ歩く人でいっぱいだった。その桜並木を目にしたとき、美晴は、うわぁ、と言って、思わずその場に立ち尽くしてしまった。桜は、むせ返るほどに盛り上がり、夜の闇に妖しく浮かび上がっていた。
 言葉を失っている美晴を見て、秀幸さんは満足げに笑った。

「ね、すごいでしょう」

 うねるような人混みの中を、ただ黙って歩いた。シートをひいて花見をしている人たちもたくさんいた。みんな、桜の下で顔を赤くして、大音量でしゃべったり笑ったりしている。歩いている中には、家族連れもカップルもたくさんいた。桜なんか見ないで、ぎゃんぎゃん泣いている赤ちゃんもいた。桜の下の喧騒の中で、自分と秀幸さんだけが、ぽっかりと静かだ、そう思った。

「ここにいる人たちは」

 ふいに、秀幸さんが口を開いた。
「みんな、家族とか、恋人とか、ずっと昔からの濃い友人とかなんだろうね」

 見上げると、秀幸さんは、真っすぐ前を見つめていた。桜を見るともなく、人混みの誰かを見るともなく、そのずっと遠くを見ているようだった。それから、頭上の桜を仰ぎ見て、こう続けた。

「ぼくは、この先、家族とこうして夜桜を見ることなんて、ないんだろうな」

 ありますよ、そう言えたら、よかった。きっと、ありますよ。そう言えたら。でも、その可能性をほとんどあきらめている彼に、それを言うのは、酷な気がした。彼だけの問題ではないのだ。実際、彼が家族とどういうつき合いをしているのか、ほとんど知らないから、無責任にそんなことは言えなかった。週末は、あえて美晴からは連絡しないようにしていた。最近は、家族のもとへ通っているのか、それすら美晴は知らなかった。

「あ、ほら、あの木、すごくきれいですよ」

 何と言っていいかわからず、美晴は、前の木を指さして、彼より何歩か先を歩いた。並んだままだと、何か彼を励ますようなことを言わなければいけない気がして、ちょっと苦しかった。人を励ます。これほど苦手なことはない。そんな器も、経験も、自分は持ち合わせていないのだ。

 そのときだ。美晴の右手は、そっと、後ろから伸びてきた手に握られた。柔らかく、包み込むように、そっと。二人は、ただ黙って、そのまま歩き続けた。

 あのとき、手を握ったのは。

 季節がずい分過ぎたころ、秀幸さんは言った。

 きみが、そのまま迷子になってしまいそうだ、と思ったからだよ、と。桜と人混みにまぎれて、そのままどこかへ行ってしまう。ぼくの元から、消えていなくなってしまう。そう思ったからだ、と。

 後ろから、美晴を抱きしめたまま、夜が白んでいく明け方のベッドの中で、彼はそう言った。

 でも、迷子だったのは、ぼくの方かもしれない。家族という行き場をなくして。温かい、帰るべき家がなくて。

 じゃあ、わたしたち、二人とも迷子なんですね。
 美晴は、自分を抱きしめているたくましくも弱いその腕を、そっと抱きしめた。

 ふいに、その腕は方向を変え、美晴は強く引っ張られて、ベッドから起こされた。

 それで、いいのかよ。

 手を引っ張った別の誰かが、青い影となって、美晴に呼びかけた。淡い輪郭だけ残して、目の前で消えゆくその影は。

 はっ、と目を覚ました。夢だった。

 美晴は、ごしごしと目をこすった。カーテンから薄く、朝日が差し込む。隣の圭は、まだ寝息を立てている。

 桜の思い出におぼれて、追憶の続きで夢を見てしまった。

 やっぱり、桜の季節は、ちょっと苦手だ。

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