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Lesson.2.健康的な人間関係〜その2〜

<その1>で、わからないを前提に話していると思い込みも少なくなる。どれだけ甘えられる相手でも理解し合う姿勢を忘れたくない。時々する意見交換も楽しい。違ってもいい、ただそうなのだと尊重するだけ。尊重しあえる関係を増やしていきたいな、と思えるようになったと書きました。

少し前までの私は、上記のような文言を見聞きした時「はぁ〜い理想論!」「幸せな家庭で育ってきたんですねぇ」もしくは「現実逃避タイプ」って鼻で笑ってたんですwヒドイ!

「愛を持って相手の話を聞く、そして伝える」なんて聞いた時には、全身に鳥肌が立つくらい気持ち悪かったんですw
両親を許せていなかった私は、幸せそうな言葉を聞くたびに脳内お花畑じゃないのだろうか、この人たちは…と、宇宙人を見る目だったと思います…ごめんなさい。

そんな私が腹の底からそう思えた時、何が許せたのか書いていきたいと思います!

長年両親と対峙してきましたが、憎んでいる私=理想の私ではなかったのです。学生の時は両親なんか!という反骨精神で生活し、憎しみを活動力にしていたと思います。
ですが年を重ねるごとに、両親のことなんかで頭の中・心の中を占領させたくないと強く思うようになってきました。できればとっとと解決して私は私で満たしたいと思っていました。
そう思うたびに過去の思い出から抜け出せず、私にとっては理不尽な理由付けされた両親との日々を思い出し、当時の可哀想だったあいちゃんを演じていました。

さてさて40歳も目前、知人の紹介で講習会に参加しました。色々学ぶ中で男性の講師が「愛を持って相手の話を聞く、そして伝える」と口からポロポロ〜♪と紡いでいました。
「またかぁ、知ってる〜」くらいに受け取りました…ですが、私は気になることがあったのです。
1つの言葉にいろんなエネルギーが乗ってる人だなぁ。この講師の人はどんな環境で育ったんだろう。複雑で興味がある、と気になったのです。
3日間の講習を経て帰宅し「あっそっか」と、なんとなく違和感に気づき、こんがらがった糸をほぐす作業が始まりました。

何に気づいたかというと同じ環境で育ったとしても誰一人として、そこで感じてきたものや学びは本人以上にわからないと言うことです。
説明を受けて共感できたとしても、全く同じ熱量・深さで体感できるものではありません。だから想像したり、おもんぱかったりするのでしょうね。この思いをやっと両親に当てはめることができたんです。

両親が育ってきた環境や当時の心境を私視点ではなく、彼ら視点で考えることができたのです。両親の幼少期、どんな環境で育ち、教育を受け、どう扱われてきたのか思い出しました。
さらにどうして彼らは誰が聞いても酷いことを、自らの子供達にやり続けることができてしまったのか、照らし合わせてみました。
名付けて「かもしれない運動」を始めたのです。

本人に確認したわけではないので真意は判りません。
ですが嫌な思いと共に「お母さんは小さい頃〇〇だったから、私には〇〇と思って〇〇な行動をしたのかもしれない」と自然と考えられるようになったのです。

心がざわつくたびに整理整頓すると、両親の育ってきた環境がチラつき、「あの嫌だった〇〇は、両親にとってベストな案で、伝わると思ったのかもしれない!」とここへ辿り着いてしまうようになったのです。
両親が私にしたことは好きではないけれど、嫌だったけど、悩まされたけど、両親にとってはこの手段がベストだと思ったんだな、この方法しか知らなかったんだな、難しかったんだな、精一杯だったんだな、と「かもしれない運動」が知らぬ間に週間になっていました。

次第に私にとっての『親』という理想像が崩れていきました。
親としてこうであってほしいという、私の身勝手な理想と現実の両親を比べて、そうではない現状に悲観していたのだとわかったのです。
私の理想はひどく高いものでした。小学校に入ると図書室へ入り浸り本の虫でしたから、ありとあらゆる著者の正義を私の理想としました。
大人とは、親とは、人として、という理想の両親を創り出していたのです。

元々保守的で変化を好まない両親が、精神性を高めるために自分をコンフォートゾーンの外へ出して学ぶなんてあり得ません。
もしかしたら子育て自体が、彼らにとってコンフォートゾーンの外だったかもしれないと思えるようになったのはほんの数ヶ月前です。

嫌というほど悩み考え抜いた両親と私の関係。彼らが育ってきた環境を想像できなかったから、憎しみが湧いていた。たったこれだけでした。

あっという間に両親に対する心の粗大ゴミがゴミ箱に収まるサイズまで小さくなりました。あとはことあるごとにポイポイ捨てていくだけです。

生活していると家族以外にも多くの人と関わります。もし家の外であなたの心がざわついたなら、かもしれない運動をしてみてください。

この人はこういう態度をとることしか知らないのかもしれない、と大きく捉えてもいいです。私は時々面白いことも考えるんですよ。煽り運転をされたら、きっと煽ってる人は奥さんの出産で立ち会うために人生で初めての煽り運転をしているのかもしれない!退いてあげよう!とかw
私の方法ですが当たりがきつい人に対して、さっきパートナーに振られたのかもしれない、上司に八つ当たりされたのかもしれない、あると思っていたアイスクリーム食べられてて機嫌悪いのかもしれない、お気に入りの洋服にシミがあって朝からイライラしているのかもしれない…etc.
と、適当なかもしれない運動をして自分の心を守って、考えられる余裕を持ってから、本当はどうなのかな?と現状把握を始めることもあります。

深く関わる人には興味を持ってどうしてそうなのか観察しています。ある程度興味が湧いてきたら、話しを聞くことにしています。
大切な前提は、人それぞれ必死に生きてきたバックボーンがあるということ。そこでの体験は全て誰にもわかるはずがないということ。
経験から生まれた人生の物差しは、全員違うもので測っているということ。パートナーでさえ、家族でさえもです。
これらを念頭に置いてコミュニケーションをとっていくと、苦手だと思っていた相手からも話を丁寧に聞けました。ではその2のまとめです。

・かもしれない運動で直接ダメージを回避
・本当の意味で相手の立場(生まれ育った環境を知る)に立ってみる
・自分が勝手に創り上げた理想と相手を比べない

自然とできるようになってきた私は、両親に対して表現方法が多くなかったことを可哀相にも思いました。
とはいえ、彼らの表現方法は好みではありませんでしたw

この時に向き合った私のエゴのお話
魑魅魍魎、餓鬼畜生のお話は、別の機会に♪

Lesson.2.健康的な人間関係〜その1〜


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