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若い時の苦労は買ってでもしておけ♡ By 祖母

いつのことだろう。
ランドセルを背負った時には知っていた言葉だったから、それ以前に教えてもらった言葉だと思う。

祖母は絶妙なタイミングで当時の私には理解できない言葉をたくさんくれた。
その中の1つだ。

庭で遊んでいると祖母がふら〜っと出てきて、縁側に腰掛けて私を愛でる時間がある。
そのあと、洗濯物を取り込む祖母についていくと、おまじないのようにいろんな言葉をくれた。
記憶している一番最初の言葉。

「若い時にする苦労は必ず将来役に立つ。お金を払ってでもしとくとええってことや。」
「愛はよかったな。お金払わんで済んだ。いつかな、いつかやで。ばあちゃんについておいで、ヤクルト飲むか?」

母は祖母について母屋へ入っていくことを、ことの他嫌った。
母家の中で何が行われているかわからないからだろう。
「ヤクルトだけ飲んでくるわぁ!!!」と母がいる家の方へ叫んで走っていくのが通例となった。
帰ると必ず「また行って、おばあちゃんも迷惑やろに。いい加減にしてほんとに」そんなこと言われても、ヤクルトの後味で気にならなかった。

祖母はとっても小柄な人だった。
でも、私にとってはとんでもなく大きい人だった。
両目を直視すれば全てを見透かされているような心地になる。
誤魔化しは効かない、でも決して間違いを責めることはしない。
感情に任せて怒ることはない。間違ったことがあれば説明し正してくれる。
最後パーキンソン病で肉体離脱準備を始める頃、初めて可愛いおばあちゃんと思えた。
そんな祖母はいつもいろんなことを背中で教えてくれた。

祖母の夫、私の祖父である人は48歳という若さでこの世を離れている。父が結婚する相手も知らないで宇宙へ帰ってしまった。
病死だ。どうして祖父がいないのか聞いた時に、カラッとした雰囲気で祖母夫婦の記憶、戦時中の話を聞いた。
その時に思ったことも、祖母は強い。だった。

祖母は自分がどう思われているかではなく、大切な人たちが今どうなのかという視点でみる人だった。
病気が発覚してあっという間に肉体離脱した夫。
その間の壮絶な看病。三日三晩寝ずに看病し体をさすりつづけることはザラだったそうだ。(人は多少寝なくても食べなくても元気なんだなと驚いたのを覚えている。)
まだ結婚もしていない息子たち。
当時、嫁を迎えるということはそれなりの準備がいる。
自分が周りからどう思われるかなんてどうでもいいし、思う隙間はなかったんだろう。

自分の大切な人たちのためにどうあるかを考える。
ただそれだけ。
それを私は強いと感じたのだと思う。
祖母は強い、かっこいい。

そんな祖母が「愛は早くにたくさん済ませることができてよかったなぁ、今の苦労は苦労やないでな」と何かを察するかのようにあったかい目で私の後ろの方を見ながら呟くことがしばしば。
大きくなるにつれしんどくなる環境に、祖母からもらったこの言葉が私のほとんどを支えてくれていたのだと、はっきりと言える。

同じ家に住んではいなかったけれど、時々しか会えなかったけれど、祖母の言葉は私の中に多く存在する。

そんな祖母から貰った言葉で大きくなってから飲み込めた言葉がある。
「愛、見えやんもんは見やんでええんやに」
私が夜に見る夢の話をした時に言われた言葉だ。
夢から覚めた時にどこにいるかわからなくなる感覚に毎度なる。という話をしたのだ。
これを言われた時は、悪いことをしてしまったと思った。
見ちゃいけないものを見てるやろ?と言われたように感じたのだ。
今ならわかる。
空気や雰囲気、顔色や機嫌や、心やエネルギーを見過ぎている。
私の視点で物事を見ることがほとんどないため、夢から覚めた時、私という肉体から見る世界が違和感でしかなかったのだ。
祖母はこのままでは良くないと思ったのだろう。

あまりに多くの情報を一度に収集するがために、子どもらしい振る舞いをしながら自分の感情をオフすることを早くに習得してしまったのだ。
自分に湧き上がる感情を認識し、私から切り離す。あたかも他人が感じているかのように。

そしてその隙間に目の前にいる人たちが何を感じて、何を見て、何を考えているのかが自分の目で見ているかのように感じ、わかるようになっていたのだ。
祖母には違和感としてきちんと伝わっていたのだろう。

おかげさまでたくさんの方々に窮地を救っていただき、無事に私というものを取り戻したわけだが祖母の心配はこれだったのだと思う。

大事な時に大事な言葉をくれる祖母と大学3年生の時にお別れしてからも、時々祖母の言葉がエネルギーとしてふわっと現れる。

言葉はエネルギー
質量や温度や香りや音がある。
祖母のあったかい温度は大好きだ。


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