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【小説】プライバシー売ります〜『ユートロニカのこちら側』#12

「足し算のできるゴリラは朝食のあとにブラックコーヒーを飲むか?」


あなたはこの質問に対してどう反応しますか?

これは、「ユートロニカのこちら側」という小説に登場する、実験都市アガスティアリゾートへ移住するための応募HPで問われる質問です。

なんの意味があるかかわからない質問ですが、小説を読み進めていくと、この質問が確かにアガスティアリゾートで住むための適性を図ることができる質問になっていると気づくことができます。

ちなみにChat GPTにこの質問をすると、ノータイムで以下のような回答をしてくれました。

「ゴリラが足し算できるかはわからないけど、朝食の後にブラックコーヒーを飲むかどうかはゴリラの好み次第だね」

おー。ごもっともな回答で。。。

『ユートロニカのこちら側』は、2015年に第3回ハヤカワSFコンテストで大賞を取った作品です。
著者は小川哲さんです。東京大学大学院に在学中にデビュー作の『ユートロニカのこちら側』を執筆しました。2022年には『地図と拳』で直木賞も受賞しました。

本作は、アガスティアリゾートを中心に巻き起こる6つの物語からなります。そして、徐々にアガスティアリゾートの不気味さが判明していき、最後にアガスティアリゾートがもたらすユートロニカ(永遠の静寂)を描いていきます。

アガスティアリゾートは、視覚や聴覚、位置情報や様々な情報をマイン社(リゾートの運営会社)に提供する代わりに、都市内で無料で生活することができる特区になっています。特区内には、ABM(特別区管理局)という警察組織が治安維持を行なっていますが、人々の膨大なデータを収集することにより、事前に犯罪を防ぎ、犯罪のおそれのある人をカウンセリングしたり、特区から追放したりしています。(そういう意味では、アニメの『PSYCHO-PASS』っぽい雰囲気があります。)

多くの情報を提供することで情報等級(アガスティア・ランク)が上がり、よりリッチなサービスが受けられるようになるのですが、このようなサービスは現実の世界でも似たようなものがあります。例えば、情報銀行や信用スコアです。また、個人情報を売ってお金を手に入れるという社会実験(EXOGRAPH)も行われたことがあります。なお、この実験結果はnoteで記事化されています。

この小説は、個人のデータと引き換えに豊かで安全・安心な社会を手に入れた私たちはどうなるのかという一種の思考実験のようなものに感じました。
情報等級や情報銀行などは現実の世界でも存在しており、全くのフィクションではなく、これらのサービスが目指す世界とでも言えるような世界観です。
また、2023年にアニメ化された漫画『AIの遺電子』にも似たような都市(ナイル社の新世界)が登場しています。(そして、この都市に移住した人々が陥る状態も似たようなものになっています。)

私たちは多かれ少なかれ企業に多くの個人情報を渡しています。これらが極地に達した時に人はどのように変わるのでしょうか?
私たちの生活はある日を境に飛躍的に変わるということはあまりなく、徐々に変化していきます。人々のデータを利用するサービスなら尚更です。徐々に多くの情報を企業に渡していき、徐々にサービスが豊かになっていく。

こんなプライバシーを売って生活する世界は、受け入れがたくも感じます。
しかし。そもそも、プライバシーの語源は、privatus「(真に人間的な生活が)欠けていること」を意味します。古代ギリシアでは、「真に人間的な生活」とは、「他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティ」のある生活のことを言い、現代のプライバシー観と逆の価値観でもありました。

このように考えると、人々が情報を公開していくのは不自然なことではないのかもしれません。このような徐々に生活に浸透していって、生活が向上させるサービスやテクノロジーほど人々は手放すことが出来ません。

「世界が本当に変わるのは、何か非常に便利で革新的なものが開発されたり、新しい画期的な物理法則が発見されたりしたときではない。更にいえば与党が改ったり、新しい法律が成立したりしたときでもない。そんなものは、政治家の人気投票に付随する塵芥にすぎない。本当の変化は、自分たちの変化に気がつかないまま、人々の考え方やものの見方がそっと変わったときに訪れる。想像力そのものが変質するんだ。一度変わってしまえば、もう二度と元には戻れない。自分たちが元々何だったか、想像することすらできなくなる」

小川哲『ユートロニカのこちら側』,早川書房,2015年,242~243ページ

『1984年』のような真っ黒なディストピア、『すばらしい新世界』のような根本から人間性を変えられた一見真っ白な真っ黒なディストピアのいずれも小説として面白いですが、現実的かということを考えるとリアリティはあまりありません。(そもそも、SFだからと言って別にリアリティは必要はなく、小説の面白さとはまた別であるのですが。。)

こういった安心安全な未来というような世界観の方が、リアリティがあるように感じます。この小説がディストピアかは、自分にはわからないです。失うものがある。でも、それ以上に人類は手に入れているのもあるのはずです。

要するに何事も加減の問題なのではないかと思います。しかし、この加減が難しいのです。徐々に変化していく社会では、気づかないことも、SFをとおして、極地を知り、バランス感覚をもてるようになるのではないでしょうか。

「高く飛ぶな。しかし、低くも飛ぶな」

古代からの神話の教訓を私たちは忘れてはなりません。

参考文献

  • 堀内進之介『データ管理は私たちを幸福にするか』,光文社,2022年

今回紹介した社会で重要になってくるのが、センシング技術やそれを利用したトラッキング技術です。これらのテクノロジーを利用したセルフトラッキング(自己追跡)についての倫理的側面について、考察がされています。

  • 曽我部真裕・見平典『古典で読む憲法』,有斐閣,2016年

古代ギリシアでのプライバシーから現代のプライバシー権についての紹介があります。

家の浴室以外の全ての部屋にカメラを設置し、1ヶ月の私生活の動画を収集した録画データを20万円で売買するという社会実験をまとめたnoteの記事です。実験には賛否両論あったようですが、とても興味深い内容です。

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