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EARTH is colorful, because...

ある物質に印刷で色をつける際、一般的には「CMYK(シーエムワイケー)」と呼ばれる4色インクを調合して、色合いを表現をする。Cはシアンの頭文字で青色、Mはマゼンタの赤、Yはイエローの黄色、そしてKはKey Plate(キー・プレート)と呼ばれるもので、つまるところこれは黒色を表しているそう(キー・プレートについては様々な説があるので、気になる方は調べてみることをおすすめします!)
同じように見える赤色同士でも、分解してみるとCMYKのパーセンテージがまったく違うこともあって、その微妙な違いがまた面白い。チューブに入っている絵の具を混ぜて色をつくるように、印刷の機械も色遊びをして、数値の通りに色を表現してくれるのだ。CMYKで表現される色は、プロセスカラーと呼ばれている。

ポスターをひとつ作るにしても、デザイン内で使われている色にはすべて数値がある。物質を印刷する際には、使っている色をCMYKの数値に分解して、機械に伝える必要がある。印刷されたものを細かく拡大していくと、まるでドット絵のように細かな粒が集約していることがわかり、その粒たちがそれぞれ微妙に色が違うことがわかる。この違いこそがCMYKの調合による微妙な差。人間と機械の「色のコミュニケーション」は、数字によってなされるのである。

プロセスカラーでは表現することのできない、さらに細かく緻密な数字の変化であらわされる色のことを、特色と呼ぶ。特色インクにはいくつか種類があるけれど、世界で最もポピュラーに使われていて、多くの印刷業界で御用達なのが「PANTONE(パントン)」というもの。アメリカの企業が開発したインクで、そのインクを調合してつくられる色がずらりと並んだ色見本帳があるのだが、面白いのでぜひ一度見て見て欲しい。長方形に、番号がつけられた色が7つずつ綺麗に並び何枚も重なっていて、めくるたびに色が変わっていくので、見ているだけでも楽しい。

有名な企業のロゴにも、PANTONEが指定されているものが多い。例えば、今や世界を網羅する配送メーカー『Amazon』の見慣れたあのロゴ。使われているオレンジはPANTONE1375C、グレーはPANTONE432Cである。私たちの生活に欠かせなくなったコミュニケーションアプリ『LINE』の緑色は、PANTONE2271C。
企業は、オフィシャルの場でロゴを使う際には、デジタルでも誌面でも必ずこの色を出す決まりとなっているであろう。大切なブランドカラーがぶれてしまえば、少しの違いでお客様から見たイメージが歪んでしまう。
赤と黄色を見てマクドナルドが一瞬で浮かぶ子供がいるように、青と白と黒を見てあの猫型ロボットを思い浮かべる大人がいるように、色の印象はとても大切なのである。

「暖色」と「寒色」は、多くの人になじみがあるとは思うが、印象を決めるにおいて、これは無視できない。赤やオレンジに黄色など、ほっこりとして暖かみのある色のことを「暖色」、青やグレーや紫など、冬のような寒さを連想させる色が「寒色」。デザインをするうえで色の配置を考えトーンを決めていくのに、寒色と暖色がバラバラにはいっていると、とっちらかってしまう。どの色をどこにおくか、この色の隣にはこれを。計算して整えていくデザイナーさんの感覚の鋭さには、いつも頭があがらない。

色は、面白い。色は、深い。知ってほしい色のことが、たくさんある。
語るには勉強不足であることも分かってはいるのだが、物づくりを始めてから、壮大な色の世界に魅了された。あまり言うことをきいてくれないときもあるのだが、それも愛おしい。

プロセスカラーも特色も、いざ紙に印刷して再現しようとすると、なかなかに手ごわい。パソコンでデータを見ると確かにその色で入稿をしているのに、そしてPANTONEの時には色指定をして色見本のチップまでつけているのに、印刷をすると全然違う色が出てきたりする。制作の段階で、本番と同じ紙に印刷をして、イラストや写真の色の出具合をチェックすることを色校正というのだが(予算との兼ね合いで本番の紙での印刷が叶わないこともある……)使用する紙の条件ひとつでも、インクの出具合が変わる。薄さや素材、マットなのか艶っぽいのか、その紙が持つ特性がなによりも大事で、そこに色がのったとき、人間の想像していたものではないものがでてくることがおおいにある。

見開きのページで、左半分を青一色で印刷したとしたら、その色にひっぱられて右側の写真も青っぽくなってしまうことがある。時にはなぜだか、すべての写真が赤っぽくなっていて、モデルの肌が赤すぎて怖い……なんてことはまったく珍しくはない。そんなときこそ編集者の目の出番。PANTONEの色見本をみて「Mマイナス=赤みを減らす、Yプラス=黄味を足す」などの赤文字を入れて、修正の指示を的確にする。
ちなみにモデル写真で見落としがちなのが白目で、ときたま雑誌をみていると目だけ黄色い!ということはよくある。全体のカラーバランスを整える色校正チェックは欠かせない。(インクにも特性があるが、ここでは省略させていただく)

色味を間違えると、人に与えたい印象と違うものを届けてしまうことにもなりかねない。全体的に爽やかなブルーで、ほどよく大人っぽいトーンに仕上げたかったのに、最終的に仕上がった誌面の色合いが誤ってグレイッシュになった……なんて暁には、明るく笑うモデルもなぜかやけにチル……という、悲しいことになるのもあり得る。印象は、ほとんど色で決まるのだ。

こう、色について考えすぎると、よくわからなくなることもたくさんある。わたしが明るいと思う色を、違う人は暗いと認識する場合もあるし、わたしがポップだと思う配色を、大人は幼稚だと思ったりもする。受け取りに違いがあることはわかっていて、マスに向けたデザインを作る難しさもわかってはいるけれど。

どうしても、感覚で納得できないことが多くある。

そしてこれは。
出版社で働くわたしが、色にまつわる記憶の中でもっとも印象に残っている話。

ちょうど半年前。
本の表紙のデザインがデザイナーさんから送られてきたとき。タイトル周りの配色案をいくつかだしてくれて(ありがたい!)、やはりこれは大切な本の顔とも言える部分。どれにしようか迷い、ウンウンうなりながら決めた一枚を上司に見せたその瞬間。
わたしが良いと思うものではないデザインを上司が良いというもんで、あれぇとなってしまった。それでもこの本はこのイメージで、まあ…たしかにこの色はもうすこし濃く……など、マスに向けるものとしての修正点も明白にわかってはいたが、お互いの意見がどうしても合わなかった。私はなんだかその日やけにモヤモヤしてしまって、いつまでも納得できず悶々としていたのだが、そのときふと上司がこんな事を言った。
「その感覚、間違ってはいないよ」

書店の棚に並んだ時にいかに目をひくか、いかに目立つか、編集者としてそうあるべきかを考えてその後、色を調整したのだけれど。その「間違ってはいないよ」が、いまだに心に引っかかっている。

色には、正解がない。目に見えている色は、その人にとってのものでしかない。そこにある色が、全世界共通の濃度でいてくれるとは限らない。自分が認識をしている色の答え合わせをすることは、残念ながら誰にもできないのである。雄弁に語る科学者でさえも、自分の見ている景色が他者と同じようにカラフルであるかなんて、わからないだろう。同じ色でも、体調が悪い時といい時に見たものとでは、たとえ同じ色でも感覚の違いでまったく違うように見えてしまうことだってある。答え合わせができないからこそ、芸術は面白い。

寒色や暖色、プロセスカラーにPANTONE。もっと分析すれば明度に彩度。すべて数値化されたそれらを使いこなす人間は、どの時代においても色に正解をつくらなかった。この赤は正しいけれど、この赤は違う!そんな馬鹿げた事をいう人間は、この世界のどこにもいない。とても不思議だ。こんなにも人間ってやつは物事に優劣をつけたがるのに、色にはない。
おそらく、自分がみている色を「正しい」と主張できる人が、いなかったからなのだろう。
見ているものをもう一度同じように表現したかったどこかの誰かが、色に名前をつけたのかもしれない。そののち、自分が見ている色を誰かと共有したくて、他者と色のコミュニケーションをとりたくて、色を数値化したのかもしれない。その発見の隅々にはきっと、人間ならではの好奇心と遊び心があったのだろう。楽しんだ人間が色を発見してくれていたら、ちょっと嬉しいなんて思ってしまう。

忘れてはならない過去に、違う色同士を比較して「間違い」をつけた人間がいたこと。皮膚の色の違いを、間違っていると盲信した愚か者がいた。
それでは一方、黒を否定した側の皮膚の色がすべて一緒だったかと言ったら、それこそまったくの間違いだ。白人の肌の色もそれぞれで、きっと数値化したらバラバラだっただろうに。
その間違いに、「間違いだ!」と声をあげた人間がいたように、そしてその差別こそが間違っているという本質に気づいた人間は、どこかで色に正解がないことをもう知っていたのだろう。歴史はときに、色までを使って間違いを起こす。赤と赤を比較しても、白と黒を天秤にかけても、なんの現象も起こらない。れがその色であるという事実だけが残る。

わたしが見ている赤も正解。
あなたが見ている赤も正解。
数値がぴったりあった同じ色を見ているかもしれないし、見ていないかもしれない。
答え合わせが永遠にできないからこそ、価値がある。
正解がないから、ぜんぶ正解。

そう考えると、色と人間って、
なんだか似ている気がして愛おしい。

たとえば人間がそれぞれ一色、自分の色を持っていたとしたら。同じ色を持ちえる生き物は、この世の中にたったのひとりもいないのではないかと、わたしは思う。わたしが赤を持っていたとして、同じようにこの世界に似ている赤を抱える人は膨大にいるであろう。しかし、その色はきっとすべて微妙に違っている。同じ色は、どこにもない。
ある赤は、原色にプロセスカラーの微妙な調整で表現されるものかもしれないし、別の赤はPANTONEのとある番号の色味に近いものかもしれない。
それでも、人の経験値は数値化できないから、その色の成分を覗くことができない。
人が生きてきた中で得た様々な要素が加わってできた色が、その人になったのだ。どの色も、その人の生きた証なのだろう。

今を生きる、すべての人。
わたしのなかでイメージされる、カラフルな人々。
茶色のあの人、黒のアイツ、白い彼女、ピンクのあの娘。
間違った色は、ひとつもない。
正しさを語るにはだいぶ胡散臭くなってしまうけれど、生きる人がそれぞれが色を持っていたとしたら。その色に間違いがないのだとしたら。
その個性はすべて、正解だと思うのだ。
その命は、全部正解なのだ。
茶色が白と仲良くしてもいい、ピンクが黄色といてもいい。はたから見たら濁っている灰色も、目立ちすぎるほど輝く金色も、等しく価値がある。
人間がつくる平面のデザイン上では喧嘩しあって、まじわることのない色たちでも、わたしたち人間が持つ色で考えれば、たとえ隣り合わせになっても綺麗でカラフルな何かになれる。まじ合って、マーブルになって、違う色になってもいい。お互いの色がそこにあるのには変わらない。

人の数だけ色がある。
人の数だけ正解がある。

地球とは、色のある人間が生き、自然に集まってできた、この世で最も巨大でカラフルな芸術品。
だから地球は美しいのだ。


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noteリレー第一走者、sakuでした。お題は、ツイッターで瀧口さんよりいただいた「色の組み合わせについて」。

第二走者は……ひさとみなつみさん!わたしの一押しの!ライターさんです。以下の記事が激熱なので、ぜひお読みください。

なつみさ~~~ん!バトンをたくしましたーー!
お題は、「春の夜に」です。
よろしくお願いいたします!

#エッセイ #コラム #デザイン #人間関係 #色 #noteリレー

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