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無駄な時間を削いでいく。

何か特に言いたいことがあるわけではないけれども、何かを書きたくて今日も筆を取ることにする。


引っ越ししたことで、久しぶりに落ち着いて絵を描いたりしている。日々の息抜きに描くのがちょうどいい。だいたいいつも、ポストカードやキャンバスにびしゃびしゃと絵の具を垂らして、それに線を描き入れていくので、先に絵の具をつけたものだけをたくさん作っておいて、それに気が向いた時に線を描き入れることにしてる。

このような感じのものを、たくさんストックしといて、気まぐれにそこから選んで模様を描く。ちょっと描き始めて「微妙」と感じて、完成しないままで捨ててしまうものもあるんだけど、それはそれ。「微妙だなー」と思ったものを無理して完成させてもうまくいくことってほとんどなくて、スーッと描きあがるものだけが、あとから見ても「あ、いいな」と思えるものになる。これって絵に限らず、いろんなものに言えることなのかも知れない。無理して何かをしてもあんまりいいことはない。というかもっともっと無理する羽目になったりするんじゃないかな。

「傑作を描くぞ」と思って出来上がる傑作なんて、きっとないんだろう。いや、「よいものをつくりたい」というのが悪いということではなくて。「傑作を作るぞ」という意気込みの中の不純物が邪魔だよね、という話。

そういう不純物を取り去る意味でも、ただの「ラクガキ」でしかない状態というのはとても居心地がいい。なんというか、無理がない。自分の感情的なことや主義主張をぶつけるために何かを作ることは、昔から苦手だった。それが表現なんだという呪いにかかってたような気がする。



個人の何事かを訴えるために作られるものがいいというのは本当だろうか。その何かを訴える気持ちは、純粋な作品鑑賞を邪魔してはいないだろうか。作品と鑑賞者の純粋な関係というのは、作り手の何事かを超えたところに存在している方がいいのではないだろうか。


エモーショナルな動きを「感動」だと捉える人たちというのは、一定数いるんだと思う。そういう人たちにとっては、作者のエモーションが感動のきっかけになるのかも知れないけれど。当たり前だけれど、それだけが感動の形ではないわけで。

24時間テレビのマラソンとかで得られる感動のようなものを喜ぶ人もいるんだろうけれど、個人的にはああいうのは今後はなくなったらいいのになと思う。なぜわざわざ超えなくてもいいハードルを設けて、それを超えるためのドラマを創造して、それを観なくてはならないんだろう?


あれをテレビで放送する理由は単なる洗脳なんじゃないだろうか。他人(テレビ局)が勝手に設けた課題を押し付け、それをクリアさせて、クリア出来るまでの悩みや苦しみ、葛藤を事細かに描写し、その課題をクリアできてやっと賞賛される…という構造はあまりにも陳腐な洗脳の手法なんじゃないだろうか。

自分の人生は他人が決めてしまうもの、それに抗うことは出来ないもの、自分では創造出来ないもの、苦しみは避けて通れないもの、課題をクリアすれば賞賛されるもの……これらはすべて、奴隷としての洗脳だ。

だからって別に、マラソン走ってる人が悪いとか、そういう話ではなくて。単に「それはセンスないよね」と言って見なくなれば、そういう粗末なドラマは人気がなくなれば消えていくのだから、あぁいう粗末な感動風のペテンは観ない、という選択をしてもいいのかなと思う。


得てして、そうやってわざわざ苦労して時間を浪費しては「私にはこれが必要だった」とかなんとか都合のいい変換をして生きて死んでいくのが人生だと思ってる人は多いのかも知れない。でも、そうじゃないとどこかで感じてる人もいるんじゃないだろうか。おかしいと感じる感性の持ち主も、声に出さないだけで、実はいるんじゃないだろうか。どうでしょうか、ね?


なんだか途中から違う話になったけれど、今日は続きが思いつかないのでこれで終わり。



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