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学習理論備忘録(17) Conditioning shall Return


さて以前、「消去された後にも、元の文脈に戻すことで条件づけが回復する『リニューアル』という現象がある」という話をした。

黒い服のお兄さんに「ちょっとつきあってもらえますか」と言われた直後にひどい目にあうことが数回繰り返された場合、その「ちょっとつきあってもらえますか」という一言を聞くだけで震え上がるようになるだろう(良い子は1回で学習しようね)。

その後、別のタイプの、例えばやさしい顔の人に「ちょっとつきあってもらえますか」と言われつづけた場合、そのセリフ自体はもう怖くなくなる。ところがその後、黒い服の男性に同じセリフを言われた場合、(ボコられたりしないのに)また震え上がる、という現象だ。


これはどういうことだろう。いや、日常的にはよく分かる。ある言葉を聞いたり物を見たりして過去の壮絶な体験を思い出す、などというシーンは物語にもよく登場する。

ちびまるこちゃんの永沢君は火事を連想させるものに強く反応する。そういう彼とて、普段から「火」をどこかでは見かけるわけで、今となってはそういうものに恐怖反応をしているわけではなかろう。だが、家で大きな炎を見れば、再び恐怖に見舞われそうだ。

今回さらっと触れたいのは、それが起こる仕組みである。原理である。


行動分析学の魅力は、あえて「目に見える行動を扱うこと」だとは言わず(ぶっちゃけ私は本当は ” 心 ”を論じるほうが好きなメンタリストなのだ)、極めて単純な原理の積み重ねで動物の行動を説明し、それに成功していることだ。

しかも他の机上の空論・ただの仮説を圧倒する説得力を持ち、現実世界での応用に見事に耐えている。行動分析家には、" 心 " をぐだぐた論じる連中がバカに見えてしかたないだろう。(くれぐれも言うが、私はメンタリストだ)

さらに本題からは脱線だが、行動分析をする人には、「行動の理由は結果である。それしか信じない」と断言する人もいる。これには私はまったく反対で、「理由」という言葉をもっと哲学的に考察してはいかがと言いたい。すると相手はきっとこういうのだ。「そんなことには関心がない」と。だから私はもう一つ別のセリフを用意している。
「俺は運動方程式しか信じない」
カッコイー!(あ、いや、シュレーディンガー方程式のほうがいいかな?それともアインシュタイン方程式?)

むろん、根本原理を解き明かすのが難しいこともある。だからそういうときは仮説が立てられるのだが、その仮説を支持する、あるいは否定する実験を、あの手この手で考え出しては実証していくという過程は本当にすばらしいと思う。行動分析学は分子生物学などよりはよほど頭を使うのではないかと思えてくる。(私はメンタリストだ)


今回はリニューアルの原理についての仮説とその検証についてほんの少しだけ触れる。

訳語が定まっていない問題があるので、今回は『復元(リニューアル)』とカッコ付きの用語を使うことにする。



まず、文脈と無条件刺激が直接連合するのではないか、という仮説が成り立つ。上の怖いお兄さんの例を考えれば、


「『黒服男』という文脈 ー ボコられる」


この2つが結びついていた。


「「やさしい顔』という文脈 ー ボコられない」


のセットも、それと別に結びつく。


だから条件刺激「ちょっとつきあってもらえますか」と「ボコられる」の条件づけがあっても、「『やさしい顔』という文脈と連合している「ボコられない」」(制止連合)によって、やさしい顔の人のセリフでは恐怖しなくなる、というのだ。

つまり、無条件刺激と文脈の連合は、無条件刺激と条件刺激との連合に足し算される、ということである。


この説明は、多くの実験で証拠が得られず、疑問視されている。却下。次。



復元(リニューアル)を制御する原理、可能性その2は、条件づけされたのとは別の文脈(お兄さんはいない)での消去過程では、条件刺激(「ちょっとつきあってもらえますか」のセリフ)が、無視されるようになるのではないか?というものである。

トラウマなセリフ「ちょっとつきあってもらえますか」に注目していなければ、恐怖反応は起こらなくなるはずだ。この文脈がまた変わると、セリフにまた注目し、復元(リニューアル)が起こるのだ、と。


本当だろうか?


「やさしい顔の人」を「美しい女性」に変えてみると分かる(つまりこの被験者は美人に弱い男であったという前提だ)。美しい女性に「ちょっとつきあってもらえますか」なんて言われてイイことをされてしまったらどうだろう?しかもこんなことが何度も続いていしまったとすれば?それはもう「ちょっとつきあってもらえますか」に対して恐怖反応ではなく性欲反応が起こってしまう。

恐怖はなくなる。すなわち消去は成立している。このとき、「ちょっとつきあってもらえますか」というセリフへの注目はなくなっているだろうか?とんでもない。美人からの誘いにしっかりと注目しているからこそ、体が反応しているわけではないか。(こういうのは『反対条件づけ』と言う)

よって、「条件刺激に注目しなくなり、また注目する」説もあえなく却下となる。



真打が登場する。なんとそれは、「文脈により条件刺激の「意味」が変わるのではないか?」という説である。

「意味」。皮膚一枚下のできごとは扱わぬようにしてきたはずが、ここでは頭の中に存在すると思われる「意味」に言及している。

こうなると、認知科学の話に近くなる。さて本当だろうか?どのようにそれを裏づけようか?


本日はここまでである。


復元(リニューアル)以外にも消去後に条件づけが再び現れる現象はあり、それらを制御しているのは、やはり文脈である。

PTSDの精神病理を考えるのにも、その治療をする際にも、とくに再燃予防のためにどう暴露すれば良いか、あるいは認知に影響を与えれば良いか、ということを考察するのにも、文脈による制御についての理解を深めることは重要だと言えるだろう。



Ver 1.0 2020/10/23



前の記事はこちらであるが


どちらかというとこちらの続きの話になっている。


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