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学習理論備忘録(18) アッチョンブリケやないのよ

さらにさらに学習理論を離れる。いつもなら手元に用意する教科書は "Learning and Behavior Therapy "であるが、今回は久しぶりに『新潮 世界美術辞典』を開いた。今回は「精神病」と「絵画」の話である。

というのは、この内容で看護学校の授業をするからである。

いや、精神疾患と学習理論の関係は深い。だから、その話をする前段として話しておく必要があるのだ、ということにする(その関係がある話をいつかするかどうかは不明である)。


さて、好きな美術・絵画の話から。

見出しの作品は、誰が書いたものだろうか?(教壇に立つのであれば直接学生に質問してみたい。あいにくオンライン授業であり収録である)有名な画家であるから大抵の人は知っていると思うが、この絵を知る人は少ないのではないかと思う。

(答えは下で述べるが、もし最初から「知ってた」という人がいたらコメント欄にでも記載いただきたい。この絵がどの程度の知名度なのか参考にしたいし、美術に詳しい人のことを知っておきたいというのもある)

タイトルは《春》である。

なるほど季節は春のようだ。窓の外からやらかな風が吹き込んでいる。明るい光の描き方は見事だ。きっと外では花が咲き溢れているだろうと想像させる。にも関わらず雰囲気は決して明るくない。おそらく中央の女性は病気であろう。薬を飲ませようとしているのは看護師ではなく家族ーーそれも母親に違いない。

《春》のモデルが誰なのか私は知らない。ことによっては実在しないかもしれない。なのに私が付き添いが母だと思うのには理由がある。
以下美術の専門家でないのをよいことに、好き勝手に論じるが、《春》は作者が先に発表した《病気の子ども》という作品を踏まえて描かれている。《病気の子ども》は、亡くなる前の作者の姉の様子が描かれており、この絵と構図が似ているのである。比較すると

・《病気の子ども》では部屋は暗い(カーテンは死を象徴する黒)。《春》では部屋が明るい。

・《病気の子ども》では病人の顔はなにか覚悟して割り切っているようで明るく力がある。《春》では曇っており光から背け俯いている。

そのタイトルと一見した暗さからか、《病気の子ども》は酷評された。そこで作者は、その逆の構成の作品を作ってみたのではないか、と思われるのである。「闇の中の光」と「光の中の闇」と。対比は残しつつそれを反転させたのだ。

《春》は高評価を得た。だが「世の中は明るいのに、病者にはそれさえも疎ましく思われる」などというのはまだありきたりな話である(「明るいから元気」よりは遥かに深みがあるが)。「絶望の中にあっても輝く生」というほうがよほどテーマとしては深い。私は《病気の子ども》のほうが名作だと思う。


同じ作者のもう一作だ。こちらはまあまあ有名なので、このへんで作者が誰かが判る人も現れるのではないだろうか。

ムンク.002

《思春期》と題される通り、思春期の女性が描かれている。若々しくはあるが、なにやら不気味ではある。女性とベッドくらいまでは写実的であるが、それでも左右の手の長さが違うし、ベッドも歪んでいる。影に至ってはもはや心霊写真であり、これが実写なら「よく見ると人の顔が!」とかいうタイトルでYouTubeにでも流れていそうだ。

「実際にあった光景をスケッチした」というよりは、「思春期の女子の内面を見える形で描き出した」という解釈をするのが良さそうだ。


次の一枚で、もう判らない人はいないだろう。世に名画は数あれど、誰もがすぐに作者とセットでタイトルを口にできるほどの名画というのは数点しかあるまい。





ムンク.003


《叫び》のうちの1枚である。たいてい、" ムンクの " と付けられる。


先の絵から内面が外界にさらに侵食してしまった。侵食と言えば背景はフィヨルドである。空も含めてそれが歪んでしまっているが、これも写実な訳がなく、この登場人物には世界がそのように見えている、ということであろう。

『不思議の国のアリス』のような、すべてイメージだけの世界を描いているのではない。実対象が歪んでいるのであって、たとえば足元にしっかりとありつづける橋などは、まだ現実感をもって存在しつづけている。だから錯視はあったとしても、幻視はない。最初から無いものは描かれてはいない。


だがここには、存在しないのに表現されているものがある。直接描かれてはいない。描きようがないからだ。だがムンクは、それを見事に間接的に表してしまった。

ヒントは彼のしているポーズである。実際に真似してみてほしい。彼は何をしているであろうか?


たいていの人はほっぺたを押さえる。さらには彼が叫んでいると言う。


誤解である。そうではない



彼は耳を塞いでいる。




叫んでいるのは背景である、という絵なのである。


このことに気づくと、この作品の凄さが分かるのではないだろうか。描けない存在しない音を、表現してしまったのだ。


これは、ホラーの世界だ。内なる不安・狂気が、外の対象に映し出されている。

外界からえもいわれぬ圧迫感を抱き、気が張り詰めつづける体験は「妄想気分」と呼ばれる。その果てには「天変地異が起こる!」と思う「世界没落体験」というものへと至る。これらは、統合失調症の急性期の症状である。「杞憂」という、「天が落ちる」と心配し食事も喉を通らなくなった人がいたという故事も、そのことかもしれない。



統合失調症では次に、そうした「意味ありげなもの」に、はっきりとした意味を直感する段階が来る。絵の中の、後ろにいる2人などは絶妙に描かれている。ニュートラルなタッチなのだ。だが少し離れているだけに、詳細が判らない。彼は疑いと恐怖のただ中で、「あいつらはきっと自分につきまとていて、いつか襲ってくるに違いない」とまもなく確信するところかもしれない。


彼はそんな中で、幻聴を聞いているのである。



ただ、この解釈は私の勝手なものである。人を勝手に診断をするのは品の良いことではないかもしれない。だが、絵の話なので許していただこう。


「統合失調症」と決めつけて、どこか与り知らぬ人がモデルの絵だと考えても、我々はこの作品にそれほど惹かれはしないであろう。

この極めて統合失調症的な世界観は、我々にリアリティーを感じさせるのだ。外界が脅威に満ち、孤立感を抱くということについては、「精神病」かどうかなどということに関係なく誰もが体験する。その追体験がこの絵でできるのである。



本当にすぐれた絵画というものは、驚くほど人を描き出している。たったワンカットで表現する、優れた役者の演技のように。

だから私は絵を観るのが好きだ。観ては描かれている人に思いを馳せている。



私は、こんなようなことを普段から考えている。


(以上を突然語り始めるというのが、私の授業の演出である)




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