見出し画像

福祉と援助の備忘録(23) 『悪人って、頭が悪い研究者という意味だったっけ?』

天に代わって成敗する素浪人や、月に代わっておしおきをするセーラー服美女が大活躍するのがこの世の中である(違う)。



今日のテーマは医療倫理である。福祉と援助の備忘録なので、臨床倫理の話をするべきところだが、研究の話をしたい。

倫理学にくわしくないくせに自分の意見を述べるのだが、こういうのはあまり勉強しすぎず、しなさすぎずのほうが面白いというのが持論である。少なくともはじめは、自分の頭で考えたいのだ。




社会学者ロード・ハンフリーズの” Tearoom Trade: Impersonal Sex in Public Places"(1970)はよく、研究倫理の話題で引用される。一部、研究目的と伝えずに、当時犯罪であった公共の場での同性との性行為を行なっていた人々のことを調べあげ、同性愛者の背景を明らかにした研究だからである。

人々の同性愛者への勝手なイメージを払拭し、さらにはそのお陰で警察が同性愛者たちを逮捕しないようになったという影響もあり、この ”Tearoom Trade" は同性愛者たちから賞賛を受けた。調査方法に多くの批判が寄せられながらも、学会の賞まで獲得した。これは、「研究は社会的に高い価値があり、その手段だけが問題視された」ということになる。

ただ、わたしが注目するのは、後に明らかになるロード・ハンフリーズ自身が同性愛者であったらしいという話である。となれば、彼は自身の研究を通し、自分自身を含めた同性愛者仲間を守った、とも言えるからだ。すると今度は、「研究自体の中立性は保たれていたか?」という利益相反の観点から、研究結果の真偽性のほうを問う議論をしてもよいかもしれない。




現代の医学研究であったならば、ハンフリーズの研究手法は問答無用に却下であろう。研究をする前に、厳しく審議されるからだ。
それは医学研究だけである。独立組織として倫理委員なるものからなる倫理委員会を施設に置くことが義務づけられている。それについて厚労省の指針もある。研究者はその審議にけっこうきつく縛られている印象がある。

なぜ医学だけこうなのだろうか?



医者は基本的に、放っておくと悪いことをするものだ、という性悪説に立っているのだろう。『ドクターモローの島』や『ジキルとハイド』に出てくるようなマッドサイエンティストは稀だとしても、個人情報をぞんざいに扱ったり、人を不快にさせるといったことくらいならありがちだ。加えて医療現場では、患者が弱い立場にいるということも勘案する必要がある。

そこで気になるのが、研究者からちらほら聞かれる「この研究がなんの役に立つのか?」「統計解析が不適切では?」というツッコミを倫理員会からされる、という話である。「科学的妥当性」「学術的および社会的意義」が「倫理」の問題にされるらしい。


「被験者への負荷を最低限にしなければならない」というのは倫理的に言うまでもないことだ。苦痛はいっそないほうがよい。それでも研究のために多少の苦痛を与えるのが認められているのは、「人の役に立つ研究だから」という言い訳があるから、ということになろう。


ルールのもとに「侵襲」と「有用性」が天秤にかかっているということである。ならば研究者は世のため人のために精を出すべきであり、つまらない研究をすることは相対的に侵襲の度合いを増すことになるから許されないということになる。この文脈においては「研究対象とすること、即ち侵襲」と考えられていることになる。

だが人は、ある程度の苦痛を自分の意思で求めることもある。不可逆な侵襲ならともかく、己のほっぺたを叩いて目を覚ましたり、激辛エスニック料理に舌鼓を打つことは咎められまい。被験者が進んで協力する場合、その研究の有用性が低かろうが構わないのではないか? とも思うのである。倫理委員会がツッコむようなことではない。


ここで、そもそも医療倫理とは? というところに立ち返りたい。物事を、結果・影響をもって正しいとか正しくないと考えるのは、「帰結主義」というものである。

帰結主義の代表が「功利主義」だ。手段の侵襲性を考慮しても、「全体として」役立つのであれば、それは正義であるという考えだ。ただ、侵襲という損失と、役立つこととは、次元違いのものだし、「役立つ」がだれにとって役立つことなのか、またその程度はどう測定するのか、と疑問は尽きない。


また、物事を功利だけで押し進めることに抵抗する人々がいる。「義務論」すなわち行為のひとつひとつが、人としての義務に則っていることが正義であると考える人々だ。害をなしてはならないのは、「そもそも人は人を害してはならないという義務があるのである」と考えるのである。すると、たとえ役立つことのためであれ、侵襲してはならないことになる。

だがこの " 義務 " なるものを判定するにはどうしたらよいのであろう? 法律で決めるわけにはいかない(そもそもその法律を作るために、人の義務がなにかと考える必要がある)。まさか宗教の教えに求めるのか?(わたしは進化論と大脳生理学に ”善” を求めるような倫理学があればそれを推したいのだが…)


そもそも行為を法則にあてはめて善か悪かと問うやりかたでいいのか。この反省に立ち、もっと人の性格というものを踏まえて倫理を考察していく、徳倫理学という考えが流行っているらしい。アリストテレスが論じたものがリバイバルしているのだ。

性格というものは、心理学的には「人の行動パターン」ということになるが、この定義は味もそっけもない。我々はそこにもっと深い意味を見出す。そこに「徳」という概念がある。

徳は「美徳」という言葉もあるように、我々が直感的によいと思う感覚に通ずる。私の感覚ではざっくり、「講談の主人公がやるようなかっこいい行為」が徳の高い行為であるように思うのだが、どうなんだろう。

ハンフリーズのしたことも、この観点から考えてみよう。彼が、批判を一手に引き受ける覚悟で同性愛者を守るために論文を書いたのだとしたら? すばらしい! この社会学者は、徳の高い英雄ということにならないか? だいたい彼の研究の苦労は涙なしには語れない。うん、講談にしてもいいぞ?



あと、被験者の「徳」ってのもあるんじゃないだろうか? 研究の倫理を考える上でまず論じられることがないけれど。たとえば、解剖のための献体をするのは徳の高い行為だろう。またジェンナーのように自分の子に種痘を摂取したという話や、自分自身を実験台にした数々の研究はあり、それらはこの「徳」で論じることができるかもしれない。


こんなことを考えていくと、倫理委員会が認めないような行為の中に、「徳」とか「倫理的な行為」が見出せてしまう。

逆に倫理委員会の審議によって、よほど意義のある研究が却下されるようなことも充分に考えられ、その場合正義は果たされないことになるのではないだろうか。倫理委員会は、研究に対する抵抗勢力、悪者になるのである。

あと、実は倫理委員には患者が入ることがあり、医療被害者を代表する人は研究を止める方向に傾くという。いっぽう、今病んでいる患者の代表は、新しい治療法や新薬を心待ちしており、研究を承認する方向に傾きやすいという。研究者ばかりではなく、倫理委員も利害によって判断が偏るのだ。



さて、研究の社会的意義や統計手法について倫理委員会がとやかく言う、という話に戻るが、個人的な意見としては、それってちょっと違わないか? 査読じゃないんだぞ? と思う。侵襲的な研究手法の横行を防ぐという本来の意義から離れて、禁止という小権力が行使されているように思う。そりゃ委員らしい仕事して正義を行なったつもりにはなれるだろうけれどさ。


基礎研究は、はじめはその社会的意義が理解されにくいことも多い。医学以外の学問で考えれば、有用性のなさはあまりとやかく言われない。イグ・ノーベル賞なんていうのもあるように、馬鹿な研究は笑えばよいのであって、第三者が禁止するものではない。むしろすぐ役立つことにしか価値がないとする風潮は、真理の探求を目指す学問というもの自体を停滞させるだろう。


倫理委員会に、果たしてどれだけ倫理があるのだろう。倫理委員会を審議する委員会はないのか?

Ver 1.0 2022/12/3

前の記事はこちら。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?