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福祉と援助の備忘録(22)  『援助職ローテーションは永遠に』



また福祉と援助の備忘録である。


仕事で人を支援するなんて望みもしなかったし夢にも思っていなかったのに、立場上人を支援することになってしまう人々がいる。「気づいたら福祉職」とは大滝いずみ先生の命名である。役所で生活保護の担当や児童の支援をする人によくある。資格もない。そういう仕事をするための充分な教育も、その仕事に就くまで受けたことがない。

それでも、「気づいたら福祉職」の仕事ぶりが良いこともある。やる気充分な志願者ばかりがいい仕事をするとは言い切れない。

知識もそうだ。芸能人議員だって当選してから勉強するものだ。「気づいたら福祉職」も、追って知識の補充がなされる。支援者が役所で受ける研修は多い。最新の話をいち早く聴けることも多く、やる気のある外の専門職がうらやむような内容の研修もある。そういったものが、「気づいたら福祉職」の技量を上げ、さらにはモチベーションまでもを高めることはある。


・・・とは言ってみたが、それでも役所が「気づいたら福祉職」を量産する限り、仕事に消極的な人が少なからず混じるのは避けられないだろう。

なんせ支援する対象には、ゴミが家からはみ出しているゴミ屋敷の住人や尿臭のする貧困者、盗撮をやめられない知的障害の男性かもしれない。そんな人々との関わりを嫌がるのは一般人なら当然だろう。

対人援助職にはそんな「嫌だ」という常識的な受け止め方を超えた相手への理解が必要になる。それが持てないとストレスが高じ、燃え尽きやすいことも知られている。ただ一般には嫌われる人に対しても理解を示す境地に達するのは、志願者にだって難しいことがある。いわんや「気づいたら福祉職」をや。

いや、世の中ではやりたくない得意でない仕事を任せられることは多い。むしろやりたいことがやれる仕事に就いている人のほうが少ないかもしれない。だから「社会人ならそれくらい克服しろ」という言い方もできる。ただ対人援助職って、一般にはどうだろう? 例えば「弁護士を選んだ覚えはないのに気づいたらなっていた」という話はあまり聞かないのだが。



役所の福祉職が報われる仕事か? という観点からも「気づいたら福祉職」を考える必要がありそうだ。

先に述べたように、対象者への負の感情はバーンアウトにつながる。危険が大きい割にはその分の手当てもない。じゃあいいことってなんだ? 福祉職にはどういうご褒美があるのだ?

それは公務員の特権である「安定性」である。

「安定性」を守るためには、よく仕事をすることだ。それはルーチンの仕事のことだ。そして仕事をしないことだ。それは昨日までのやり方からハミ出た仕事のことだ。そうして数年無事にやり過ごせば、次のローテーションがやってくる。そう。福祉職はみんないつかはやらなければならない汚れ仕事なのだ。町内会の班長や、学校のトイレ掃除と同じだ!


・・・と、この発想を続ける限り、役所がローテーション人事をやめることはあるまい。「私には援助職はちょっと…」と遠慮することは、汚れ仕事へのフリーライドでしかない。たとえ職員がいくら病もうが、ローテーション制を無理に改めようとすると強い抵抗が起こり、全体がきしみかねない。「適所適材? そんなことをしたら祟りが起こるぞ!」と。


困ったなと私が思うのは、そもそも専門職とは、迷いの末に「どう少しだけハミ出られるか」に真価が問われるからだ。理屈や建前ばかりでなく情を働かせ融通をきかせることが重要になる。現場が、降ってきた仕事を「さばけばいい」とばかりに処理する「気づいたら福祉職」ばかりになっては、よい成果が望めるわけがない。福祉の現場での成果とは「しあわせ」である。



支援を受ける人が役所を作るなら、どうするだろう? 援助職に就く人をどう選ぶだろう? そういう仕事をする人にどれだけの手当てを払い、どのようなサポートをするだろう? 「気づいたら福祉職」を生み出すような組織づくりを、果たして許すのか否か?


Ver 1.0 2022/8/23

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