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福祉と援助の備忘録(1) 「この壁は決して崩れる事の無いジェリコの壁!」

(写真は、吟遊の屈強な拳で、地面を破壊しているところ)


教育・医療・福祉の備忘録を記そうと思う。(学習理論備忘録からこのテーマを独立させる)


NPO法人そーさぽ旭川キックオフ座談会というものが本日あり、そこに参加して学んだこと、考えたことを、相変わらず自分がいちばん分かるように書く。


対人援助職に対して「偉そうだな」と、サービスを受ける側が思うどころか、その本人さえもが思うことがある。これってたぶん、あるあるだろう。

その理由は、援助者が、困っている当事者の話をろくに聞くこともなく、「この人には援助が必要だ」と当然のように思ってしまうことがあるからだ。困っている人の人生に対して、援助ありきで深すぎる関わりをするのだ。


「あんな女に助けられるなんて!
    そんなことなら
    死んだ方がマシだったわよ!」


こういうセリフは受け付けない。だからこそのプロ、専門家なのかもしれない。プロのくせに、ではなく、プロゆえに「そもそも当事者に援助が必要か?」が問えないのかもしれない。それが援助者の存在理由だから。ほかにも、「そんな援助は必要ない」「必要なのはこういう援助であって、ほかではない」と援助者が当然のように思い込むことがある。

「当事者に寄り添う援助」「当事者の話を聴く」「当事者のために」・・こういったお題目はよく聞かれるが、ほぼほぼできていないと思ったほうがよい。これはゼロイチの問題ではないので、程度の差こそあれほぼ例外なくある。

私は叫びたい。

「他人の為に頑張ってるんだって思うこと自体、楽な生き方してるって言うのよ」

そして後ろから言われる。

「それはあなたも同じでしょ」


絶望的なまでに援助される人の立場に立てない。これが第1層めの壁である。ATフィールドである。



次の壁は、医療・福祉・司法などの援助者が、当事者を巡って合同でカンファレンスをやるが、そこで言葉が通じないことだ。

集うのは形こそ違え、みな対人援助職なので、問題になるのは「援助が必要か?」ではない。支援の方向性と方針、手段の問題である。


各ギルドが別れているということ自体で、まず壁ができる。心理的なものだけなら、顔を合わせ続けることで打ち解けることはできる。

だが専門家というものは、今分担している役割が違うだけ、というものではない。自分たちギルドの視点というものを育んだ、他の役割に代われない人のことである。方言のごとき専門用語を使うというだけでなく、もっと根深く、考え方の独自のフレームを持っている。

これがどうにも崩し難い。良いとか悪いとかではない。「こう考えるもの」と教育されてきた者は、「いや違う。こう考えるものなんだ!」と言われても受け入れられない。そんな考えをしたことがない(場合によってはそれを理解する能力がない)。

このことはある専門職の考えが他の専門職より劣っているとか優れているということを必ずしも意味はしない。1つの物事を見る視点の違いであることが多い。ただ私は、職種によってはある領域に置いて未成熟で、考えが甘すぎるということもあると思っている。(これには、その職種の歴史、文化、流行、偏差値、地位、信用等が関連していると思われる)


以上、援助をする多職種が互いに通じぬ言葉を話す。これが第2層めの壁である。



最後に、同じ職種の中にある壁、というのがある。同じ職種でも、援助技法が異なってしまうときだ。そこでも言葉が通じず、方針も合わせようがなくなりうる。

同じ専門領域だとはいっても援助方法は1つだけではない。それらを自分の手段とまではしなくとも、ある程度勉強していればまだ理解はしやすくなる可能性はある。だがその援助方法を知ってすらいない人がいる。

さらには、援助方法を知っていれば共通に話せる可能性を上げられる、とは簡単にはいかぬのが厄介である。援助方法にもやはり考え方のフレームがつきまとうので、新たなものを追加では理解しがたいことがあるのだ。

私はよく、ボクシングと剣道の両方を身につけた人は、左足と右足、どちらを前に出したらよいのか?と喩える。2つ身につけたらからといって、その分強くなるとは限らないどころか、どちらも下手になることさえありうる。

しかもこういう、学校で学んだことの上にさらに重ねて学んだ技法は、しばしば派閥、宗教的な信仰に近いものを匂わせるから厄介だ。それを好きすぎる人と、もっとまずいことに「嫌い」どころか憎む人が現れる。そう、憎悪の問題だから大変なのだ。


身につけている技法によってコミュニケーションの弊害が生まれる。これが第3層の壁だ。



援助者はかつて学校の専門的な授業で常識というものをぶち壊され、一般人とは別の特殊な存在になっている。これをセカンドインパクトと呼ぼう。そこで学んだ新しい「基準」を使い、仕事をするようになる。するとその基準でなければものを考えられないようになってしまう。あるいはそういう考えかたに「こだわる」。


レゾンデートルを根本から揺るがすような問いは、人はなかなか考えられない。考えられないどころか、問いの存在さえないことにしてしまう。あるいは、揺るがすものを許さない。

だが援助とは相手があるものだ。援助される者のためにならない援助とは、もはやなんだろう?援助者がリリスなら、被援助者という存在はしばしばその禁断の問いという導火線に火をつけるアダムである。援助職が現場で「そもそもよき援助とは?」という問いにぶちあたると、サード(フォース?)インパクトが起きてしまう。


あるいは、他の職種と会話ができない言語の意味ってなんだろう?さらには同じ職種にすら通じない言葉とは?


かくして援助職はガラパゴスが乱立した世界となる。それで同じ言葉を話す人と群れる続けるのである。ラクだから。

でも「ラクだから」とは思わず「俺たちだけが正しいから」と信じるかもしれない。


己の無知故に心理士を説得できなかった医者が「あんたは医学的知識がないからわからない」と言い放つのを聞いたことがある(よくある)。これが、「あんな迷信みたいな治療を信じているおかしな患者だ」(本当は患者が正しい)と言ったり、あるいは「そんな病状なんてあるわけない!」(実はある)と言ったりすることは、同じようなところで繋がっている。


信じない、馬鹿にしている、聴く耳を持たない・・・根っこには、「私が理解できない」がある。


相手に仕えもせず、共通言語でも話せない「援助職」は、まず理解を放棄しているのだ。すっぱいぶどうのように、手が届かないのだ。

だが、理解するのは本当に難しい。したいと思っても難しい。各プロが真面目に働いてもこういう問題があるのに、そこにまた、やる気、温度の違いだとか、倫理観の違いだとかいったものが個人的に、あるいは施設単位であって、重なってくる。うひゃー。


望むらくは、リビルドを企む碇ゲンドウである。


Ver 1.0 2021/3/18

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