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◇不確かな約束◇ 第8章 中



そんな学会での一幕があったが、札幌に戻ると学会の祭り気分も吹き飛び、また忙しい日常に戻った。最近は北海道といえども初夏から暑い日が続く。ちょうど外科の実習中で、窓もなく温度も動物に合わせて管理されている手術室にいては、季節を感じなかった。だが外来のある日は、暑さが原因で体調を崩し動物医療センターに連れてこられる犬がちらほら現れ始めたので、ああ外は暑いのだな、とは知ることができた。ちなみに暑さのせいで受診する猫は少なかった。

亀山爵。あの旭山動物園の獣医のことは気になっていた。

学会が終わって一週間が経ったときだ。

「忙しいかな。」

中川先生から声をかけられた。殺伐とした教室内で、中川先生は中堅だけれど穏やかな己のペースを貫いている人だ。教授よりは引退間近の准教授寄りの先生だ。あー、こういう発想を常にするなんて、この世界に染まっている。私、もう普通の人のような会話をすることができるだろうか。

「悪いね。大したことではないんだけれど、ライムちゃんの通院の日だったからさあ。松井先生、陪席する?」

上の獣医師と共に診察室に入り診療の様子を見せてもらうのは、研修生のノルマのひとつだ。中川先生は西山くん、、あ、いや西山先生の指導を担当していたので、私が中川先生の診療スタイルを見る機会は少なかった。

ライムちゃんと言われて一瞬分からなかった。だが、あの西山先生が学会で発表した症例のことだと思い出すと、「見ます!」と反射的に答えていた。担当違いの獣医師の診察の陪席はよくあることで、申し出ればすぐに許可してもらえる。

「ライムちゃーん。」と中川先生は自分の診察室の扉を出てライムちゃんを呼び出した。このセンターでマイクを使わずにそんなふうに呼ぶ獣医が、他にいるだろうか。と、そこで驚くのはまだ早かった。そのまま中川先生は戻ってこない。私は慌てて診察室を飛び出すと、中川先生は、待合室でライムちゃんを撫でながら家族と話していた。挨拶だけではなく、そこで診察を済ませているのだ。足の悪い犬のことを思えば、もっともな話だ。

「ちょっとこっちの薬に変えてみますね。」そういって中川先生は慣れた手つきで後ろから手を回し薬を与えた。漢方は苦いから犬には嫌がられるのに、中川先生は一瞬で飲ませてしまった。

その後は別の犬に注射を打つのを見せてもらった。犬の体のいろんな所を遊びのように指でついて、するといつのまにか注射を済ませてしまっていた。


「先生。なんか、その、、なんかすごいですね。」

午前の診察が終わってから診察室で早速質問した。日頃から曖昧な物言いをたしなめられる獣医の世界で、私のこの言い方は曖昧にも程があった。久しぶりに、いい意味での興奮を覚えたせいだ。

「なにが?」
「なにって、ほら、薬の与え方とか、一瞬でした。」
「これくらいはみんなやっているよ。」
「でも、注射とか、犬の気をひいている間に終わっていて。」

ああ、あれねぇ、と、中川先生は、褒められてもさほど喜ぶ風でもなく言った。

「上には上がいる。」
「もっと上ってなんですか?あれは先生しかできないでしょう。マジックですよ。」

そうか、と中川先生はなぜか苦笑いした。

「僕なんかはまだひよっこだよ。すごいっていうのは、例えば写真だけで疼痛を見抜くような人のことだね。ライムちゃんは一度歩けるようになったのに、また歩けなくなった。元気だけつけるような治療は間違っていたんだ」
「そ、そうなんですか?それって、、」

この教室の獣医師のほとんどが評価していない、あの旭山動物園の獣医、亀山先生のことを言っている。たしかに、あのときあの先生の言ったことはことごとく正しかったことが今日のライムちゃんの診察で判った。

「ところで先生。こういう技術、身につけたい?」

唖然としていた私に、中川先生が尋ねる。

「あ、はい。もちろん。」
「じゃあ、亀山先生の『けもの道場』っていう勉強会があるけれど、紹介しようか?今週の金曜に旭川でやるけれど。」

私は中川先生の顔をまじまじと見つめてしまった。

「行きたいです!」

だがあいにく、その日は当直であった。


『けもの道場』 怪しいネーミングはあの亀山先生のことだからわざと狙っているのだろう。内容について中川先生は、ただ勉強会だとしか言わなかった。何を学ぶのか。とって食われやしないだろうか。今日は当直だったが、西山先生に別の日になんとか交代してもらい、仕事を無理やり切り上げ、旅費と、貴重な時間とを費やすことにしたのだ。その価値はあるだろうか。
特急カムイの大きな揺れの中、そんな心配を抱いて窓の外を眺めていた。


旭川の夜は暑かった。空気が止まっている。会場まで、普段なら歩く距離であっただろうが、もう勉強会開始の時刻を30分近く過ぎている。1分でも惜しい。私は駅前からタクシーに乗った。


「サン・アザレアまで。」


運転手は幸い、その会場を知っていた。

『けもの道場』という立て看板のある会議室を開けようとしたとき、中から「こんなんペースが合ってないでしょ。これを踏まえずに相関がないとかいうヤツはアホよ。ビフォーアフターだけがエビデンスじゃないから。アホ。」という、怒鳴ってはいないが意味としてはキツい言葉が聞こえてきた。。今時職場でこんな調子のことを口にしたらパワハラ認定確実だろう。そんなことを思いながら、ここまで来たら扉を開けるしかなかった。

四角く並べられた机の一番奥に、踏ん反り返って座っている亀山爵が見えた。

「おお、はるばるよく来てくれたね。北大の動物医療センターの松井先生です。」

私のことを見るなり、亀山先生はそれまでの叫び声と怖い態度はどこへやら、ニッコリ笑顔で私のことを紹介してくれた。中川先生から聞いていたのか、それとも私のことなど、覚えていたのか。

それからプロジェクターを使って動画が流された。

《よーし。そう!》

飼育員が動物に餌をやるタイミングを、亀山先生が指導している。けなしまくるのかと思っていたが、案外辛抱強い。ずっと待って、あるタイミングで餌をやったときだけ飼育員をただやさしく褒めている。でも彼の認めるタイミングから少しでもずれていると、何も言わずにただ見ていた。そういうことが日々繰り返されたようだ。

20分ほど経ったとき、画面の中に息を飲むような映像を観た。

獣医が血液検査のために注射器を持って台の上で待っていると、ライオンが、自分から腕、、じゃなかった、前足を、差し出しているのだ。人間の子供でさえこんな芸当はできないだろう。

「上には上がいる」

その言葉を思い出した。


私はその勉強会にのめりこんだ。亀山先生が惜しげもなく教えてくれる知識はあまりにも実践的で、新鮮で、全身に染みていくように感じた。あれだけ日々私は学んでいるというのに、まだどこかで乾いていたんだ。私の心臓は早く動いていた。なんだろう、このデジャヴ。はじめての感覚ではない疾走感――

バイクだ。竜也の背中で観た草原と空だ。

私はふと思った。何かあった時思い出すのは、もはやシュウではなく、竜也なんだな、と。


***


第8章 下 へつづく


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