見出し画像

【長編小説】 初夏の追想 12

 ……ここにこうしていると、私は大切な記憶や思い出が、どんどん薄れていくのを感じる。以前は確固としてそこに有り、、、過ぎ去ってしまったあとも頭のなかにこびりついたようにしっかりと根を張っていたはずの数々の印象や場面が、いざ筆に乗せようとすると、細かなところから、やけに呆気あっけなく、それもものすごいスピードで消えてゆくような気がする。それはまるで、両手にすくった海岸の砂が、しっかり握ろうとすればするほど、さらさらと指のあいだからこぼれ落ちてしまうときのような心もとない感覚だ。
 だからこそ、私は急いで仕事をしなければならない。いったん書き始めてしまったこの物語を、途中でやめることなく、しかも休まずに、最後まで書ききらなければならない。いままだ思い出せる限りの出来事を、あの人たちそれぞれの言ったこと、したこと、そしてあの人たちの心にあったことを。私の記憶はとても曖昧だ。私が一番恐れるのは、それらを正確に、起きた通りに書くことができないということだ。鮮明に覚えているはずの記憶は、文章に変換されるうちに、しばしば酷くいびつなものになってしまったり、私の想いが入り過ぎて本来の姿とは異なるものになってしまいそうになる……。それくらい、時間というものは――それも、長い年月という膨大な〝瞬間〟の集積は――人を狂わせ、愚かにする。
 それでも私は、精いっぱい、力の及ぶ限り、人生のひととき私の身に起きたその出来事を書きつづってみようと思う。なぜならその出来事は、これまでの私の長い人生の中で、最も強烈な光を持って瞼の裏に焼きついているからだ。
 彼らにまだ、私は本当のお別れをしていない。この物語を書き上げることによって、もしかすると私は私自身の気持ちにけじめをつけようとしているのかもしれない。そうすることによって、いまはもう会えなくなってしまったあの人たちのことを想い続けるのを、ついにやめることができるときが来るかもしれないと。
 
 

 ……ぐにゃぐにゃした、骨のないような顔が浮かび上がる。白い、とても白い……けれど、何ひとつ意味を成さない顔。何ひとつ思い悩まず、ただ単純に生きる、というよりは、何かもうなげやりになってしまっているでもというような、彼女の姿、その振る舞い。――知るか、あとはどうとでもなれ、と、少し|怒《いか
》りながら心の中で呟いているような顔を、時折彼女はした。
 犬塚夫人はとても〝つかみどころのない〟顔の持ち主だった。もう五十歳を越えているはずだったが、その特徴のない顔立ちは、返って年齢というものをほとんど感じさせなかった。優雅な物腰を持つ非の打ち所のない名流夫人であることを除けば、彼女に関してただひとつの特徴といえば、飛び抜けて肌の色が白いということだった。だが、それ以外は――……目鼻立ちは整っている。目頭から下にスッと伸びた細い鼻筋を、桜色の形のよい小さな唇が受け止めていた。けれど、顔のひとつひとつのパーツが全部普通の人より小さく、眉も薄いので、全体的な印象がぼんやりとしていた。強いて言えば、能面の顔に似ていなくもなかったが、そんな風に言ってしまうには、彼女の顔の表情はあまりにも生きて強い意志に満ちていた。――彼女が何か、ほうけたように放心状態でじっとしているとき、そんなときは、その顔はまったく特徴を失ってしまって、例えば道ですれ違った知らない人があとで彼女の人相を思い出そうとしてもどうしても思い出せないような、平々凡々な顔になってしまう。けれど、ひとたび彼女が意図を持って何かやり始めると――それは、お喋りでも料理でも何でもいい、そしてそういった能動的な動作をするときだけに限らず、例えば人の話に耳を傾けるとか、音楽を聴くなどといった受動的な動作をするときでも同じだった――、途端に彼女は〝彼女の顔〟を持った。それは、ほかの人が真似しようとしても決してできない、彼女だけが持ち得るただひとつの顔だった。そしてそのとき何をしているかによっても、その表情は違うのだった。
 私はドキッとしたことがある。いつものように私と祖父の暮らす離れに遊びに来ていたとき、私の側で何か面白い話をして笑い興じていたときの彼女と、祖父に習いながら木炭でクロッキー画を描こうとしていたときの彼女は、まるでまったく別人のように見えたのだった。何かが起こるたびに、その刺激に応じて顔の細胞がひとつずつ生まれ変わるかのようだった。……そんな風な彼女の顔を、よくあんなに上手くとらえて肖像画に描ききったものだなと、祖父に感心したものだった。
 月並みなことかもしれないが、私は彼女の笑う顔を見るのが好きだった。笑ったときに、豊満な頬の肉がぐっと持ち上がって、その盛り上がり、、、、、のせいで彼女の小さな目がますます細くなり、瞳がほとんど隠れてしまうのを、面白いと思っていつも見ていた。そしてそのときには、笑いの興奮から白い頬の真ん中辺りにうっすらとピンク色が差し、その顔はもはや決して能面などとは言えなくなるのだった。
 
 ――反面、犬塚夫人は、時々非常にシニカルになることがあった。――そんなとき彼女は、不機嫌で、厭世的えんせいてきで、感情を爆発させることも躊躇ためらわなかった。ことに彼女の人生、彼女の家庭について深い話をするときは、なおさらそうだった。
「……いつも機嫌がよくて、愛想がよくて、それに物質的には何の不自由もない私が、こんな話をするなんて……らしくないと思われるでしょうね? でも、聞いて下さいますか、その実情を……。私にも悩みがないわけではないんですのよ、ああ……この子のこと? 違います。この子は確かにこんな風ですけれど、私はこの子を愛しています。とても大事に思っているんです。だから家でも、休暇中でもいまのように片時も離れずに一緒にいるんですわ。……まあ、親としてはそれが当たり前ですわよね。この子は学校にも行かずに、いつも私の側にいる。もう慣れてしまいましたけどね。お互い空気のような存在です。ねえ守弥……。こんな風に、調子の悪いときでもこの子は私の言うことはちゃんとわかっているんですよ。ちゃんと全部聞いています。ただ……お話したくないだけなのよね。自分が話したいときは、話すこともあります。ねえ守弥……、この前お話してくれたのは、あれ、何だったかしらねえ? もう一度、聞かせてくれない……?」
 ひとり掛けのソファに両膝を立てて坐り、自分を守るような姿勢で本を読んでいる守弥の髪を、彼女はくしゃくしゃと撫でた。彼女の指のあいだで乱雑に散らかった柔らかな黒髪が、守弥を可愛らしくおさなげに見せた。彼はそれに怒って、乱暴に彼女の手をはねのけると、髪の乱れを整えた。そして元の姿勢に戻ると、読んでいた本に目を落とした。
「やっぱり駄目だったか」
 彼女は小さな溜息をついた。
「私と二人きりのときがいいんです。こんな状態の日は、お話するのは、ほかの人がいるとやっぱり難しいみたい」
 一瞬、彼女は茫然自失したような、とりとめのない、あの能面のような顔になった。だが次の瞬間にはもう生気を取り戻して、私の前で話していたときの顔に戻った。
「――私はこの子を愛しているし、この子も間違いなく、、、、、私を愛しています。私たち母子おやこは、他人には想像もできないほど固い絆で結ばれているんですの」
 自分に言い聞かせるように、彼女は言った。それはなぜか、不自然なほどかたくなに響いた。
 彼女は続けた。
「……家の中で、繋がりを感じられるのはこの子だけ……。おわかりになります? 犬塚の家に嫁いでから、ああもう……何年になるのかしら……三人の息子を持ちましたからね……守弥はもう十四歳。早いものですわ。若かった人も、あっという間に年を取ってしまって……。長男が昨年会社を継いで。主人はもう私と口をききません。もうかなり前からです。お互い興味がなくなってしまったのですわ……。ふふ、私にとっては、それは一向に構わないんですけれどね。寂しい? いいえ、ちっとも寂しくなんかありませんよ。ここにはこんな風にあなた方がいて、お相手をしてくれますし。それにはとても満足して、感謝しておりますのよ。そうね……私たちのような中高年の夫婦で、こんな風な関係になっている方々も、結構いらっしゃるのよ。そして……私たちのような生業なりわいをしておりますと、家族関係もそんな風になりがちですわね」
 そう言って黙ったあと、急に彼女の顔つきは変わった。
「主人は守弥の病気のことには、まるで頓着しないんですのよ。親なら、病気について本で調べるなり、有名なお医者様を探すなり、何かしても良さそうなものなのに。財界にいくらでもコネ、、は持っているでしょうに、あの人ったら全然重い腰を上げようとしない――『気にし過ぎだよ』、『そのうち治るさ』、『この子はこんな子なんだよ』、『大丈夫だよ』……こんなことばかり言って、のらりくらりとかわしている! どうしてなの、裕人ひろとがいるから、後継ぎはもう決まってるから、三番目の子はもうどうなったっていいっていうの!?」
 彼女は激昂した。薄い眉が吊り上がり、顔面は蒼白となった。いま彼女の顔の全細胞は入れ替わり、位置を定め、表面を落ち着かせ、完全な般若の形相となっていた。
「そ、そんなことは……。どうなったっていいなんてことはないでしょう……」
 私はそのとき、ありきたりの慰めの言葉を言うことしかできなかった。それほどに、彼女の怒りの爆発の激しさに圧倒されていた。
「……長男も私には冷たいんですのよ。会社のことで、主人と長く過ごしていたものだから……きっと洗脳されたのね。いいえ、あの子は最初っから父親に似て冷徹なところがありました。顔も声も父親にそっくりなのよ。ああ、もう、嫌だ。私、あの人たちと暮らす家になんか帰りたくありませんわ。休暇が終わってもずっとここで過ごそうかしら」
 すると、途端に、彼女ははっと気づいたように言った。
「ごめんなさい、私、今日は愚痴ばっかり……」
「いいんですよ」
 私は言った。
「人間というものはガス抜きが必要なんですよ。きっとご自宅では毎日気を張ってお過ごしなんでしょう。世の中にたったひとつぐらい、言いたいことを言いたいようにぶちまけられる、、、、、、、場所があったっていいじゃないですか。ね。休暇ってそのためにあるんですから」
 それを聞くと、犬塚夫人はにわかに相好そうごうを崩した。私のお気に入りの、あの細く瞳の見えなくなる目の形が現われた。ぶちまける、、、、、、だなんて、すごい言葉! と大笑いして、彼女はたちまち上機嫌になった。そして座っていたソファから身を乗り出すと、若いころ、モディリアーニの絵の女に似ていると言われたことがある、などという話を、楽しそうな笑顔を振りまきながら始めるのだった。私の蔵書の中にあるモディリアーニの画集を手に取って、彼女はあるページを指し示した。それは『タータンチェックのドレスの女』という題の絵で、顔の輪郭と目の大きさは異なるものの、彼女は本当にその絵の女性によく似ていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?