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「パリに暮らして」 第16話

 ――そして、しくもその三日後、あの事件が起きた。世界中に恐怖を撒き散らそうとしていた、狂気の浸潤者達……。一月の事件はその発端に過ぎなかったことを、彼らはその夜、パリ市民に知らしめたのだ。
 
 二〇一五年十一月十三日、金曜日
 
 その日、私達は空腹を覚え、どちらから言い出すともなく連れ立って通りへ出かけた。
 移民の街メニルモンタンの界隈には、パリの他の区に比べると、あまり目ぼしいレストランは無い。ただ、他のエリアとは違って路上を流れてゆくケバブの食欲をそそる香ばしい匂いや、目に鮮やかな香辛料をウィンドウの目立つところに山盛りにして飾ってある美味しそうなクスクスのレストラン、美しいカラメル色をしたダックをぎっしりと店先に吊り下げた中国人の店などが目を引いた。
 その中で私達は、えて数少ないフランス料理の店を選んだ。……私達は、確かにまだボルドーの思い出を引きずっていたし、二人の間には、その後に続いて芽生えた互いの親密さを今は大切に温め合って過ごしていたいというような気分があった。小路でのショッキングな出来事から立ち直り、とりあえず心の平衡を取り戻していた私は、残り少ないパリでの滞在の中で、柊二さんと過ごす時間を出来るだけ大切にしようと努めていた。
 柊二さんが、ある店の前で足を止めた。そこはパリの庶民が集うような、気楽な大衆食堂のようなところだった。私達はそういった雰囲気を好んだ。二人で店の前に出ているお勧めメニューのボードを読み上げ、おおかたの目星をつけて中に入った。
 店内は入口から想像していたよりも広く、正面の壁にしつらえられた大画面のテレビ(おそらくサッカー中継を見せるのだろう)からは、スペインかイタリアだかを行く、気怠けだるそうな旅番組が流れていた。私達のようなカップルや家族連れが多く、混み合う時間帯にしてはまだ席が空いているようだった。
 あまり若くないウェイトレスが、疲れたような覇気はきのない笑顔を浮かべて近づいてきて、お二人様ですか? と尋ねた。
 テーブルに通されると、柊二さんはアペリティフを注文した。アニスのリキュールを炭酸で割ったものだった。私は赤ワインを頼んだ。
 私達のテーブルに付いた、あのくたびれたウェイトレスが、すぐに飲み物を運んできた。私達は銘々めいめいに料理を注文した。柊二さんは内臓の赤ワイン煮込みをメインにしたコースを頼み、私はハムとチーズのそば粉のクレープを注文した。
 前菜アントレに、タラとオイルサーディンを、細かく刻んだ新鮮な野菜と一緒にビネグレット・ソースとエストラゴンでえたものが出てきた。柊二さんはその味に痛み入り、私に味わってみるようしきりに勧めた。それは確かに珍しく、惚れ惚れするほど美味しい前菜だった。サーディンのコク深い味が、赤ワインにもとてもよく合った。
 私達は、当たりのお店に入ったねと、上機嫌になって食事を続けた。柊二さんも、アペリティフを飲み終えると、すぐに赤ワインに切り替えて、メインの内臓料理に取りかかった。そば粉のクレープは、スイス産のグリュイエールチーズを使っていて、塩味の効いたハムと絶妙な相性だった。クレープ生地もあっさりとしていて私の好みに合った。
 デザートが運ばれてくる頃、メニルモンタンの夜はぐんと深まった。レストランの客も段々と増えてきて、ほぼ満席になっていた。白人や黒人、私達のようなアジア系の人々、そしてスペインやポルトガル、イタリアなどのラテン系の人々が、ちょうど同じくらいの割合で席を占めていた。沢山の外国語が飛び交い、勘定を終えて帰って行く客や、新しく入って来る客がドアを開け閉めするたびに、パリの秋の冷たい夜風が吹き込んできた。
 ボリュームのある料理の後には必ずそうするように、柊二さんはエスプレッソを頼み、私はドリップコーヒーをブラックで頼んだ。デザート(ピスタチオのケーキだった)と共にそれらが運ばれてきた時、突然テレビの画面が切り替わった。
 
 
 緊急ニュースです。パリ市内で、テロ事件が発生した模様。たった今、市内の数か所で爆発音や発砲音が響き、人々がパニックを起こして逃げているというニュースが入りました。
 
 
 私達は、顔を上げてテレビの画面を見た。緊迫した面持ちの、女性のアナウンサーが早口で話していた。その時はまだ、報道フロアが写っているだけの画面で、たった今入ったばかりのニュースでテレビ局側も中継班が向かっている最中といった様子だった。
 
 アナウンサーはもう一度同じニュースを読み上げた。
 
 
 緊急ニュースです。パリ市内で、テロ事件が発生した模様です。たった今、市内の数か所で爆発音や発砲音が響き、人々がパニック状態で逃げまどっているという知らせが入りました。
 
 
 途端に、レストラン中の人々のスマートフォンが悲鳴を上げた。ニュースはSNSの速報でも発信されたようだった。店内は、突然の出来事に騒然とした。「新しい情報が入り次第、再びお伝えします」と言うテレビの中の女性アナウンサーを尻目に、人々は自分のスマートフォンの画面に釘付けになった。様々な言葉が飛び交い、人々は不安げに会話を交わし、時々鋭い悲鳴が上がった。
 私の日本のスマートフォンは情報が遅く、まだ何も送信されてはこなかったが、柊二さんは他の人々と同じように自分のスマートフォンに見入っていた。
「……テロ事件って……。パリ市内で起きたの? 大丈夫なの?」
 私が聞くと、柊二さんは言葉をさえぎるようにしっ、と言って、真剣な顔でしばらくスマートフォンを凝視していた。遅れて私のスマートフォンにも、日本の情報媒体が発信した速報が入ってきた。
 
 パリでイスラム過激派によると見られる大規模なテロ事件が発生 
 
 クリックして詳細を読むと、今夜パリ市内の複数の場所で、イスラム過激派によるテロ事件が発生した模様、とニュースは告げていた。
 
 
 新たなニュースが入りました。報道によると、今夜パリのバタクラン劇場、サン・ドニなど数か所で、イスラム過激派によるテロ事件が発生しました。詳しい情報によると、イスラム過激派は銃を乱射し、不特定多数の人命が失われた模様です。また過激派は、店内で自爆テロを行い……
 
 
 レストランの中で悲鳴が上がった。人々は立ち上がり、我先に勘定を済ませようと、会計レジに殺到した。自爆テロという言葉に反応してパニックを起こしたのか、それとも、一刻も早く自宅に戻って家族の安否を確かめようとした人もいたのかもしれない。
 
 柊二さんはさっきからずっと電話をかけていた。相手が出ないようで、何度も何度もかけ直していた。
「リザが、電話に出ない」
 私と柊二さんは、黙って見つめ合った。
「家に帰ろう」
 柊二さんは青ざめていた。

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