【短編小説】 シャルトリューズからの手紙 第5章
戻りました。再び、僕は始めなければなりません。朝のミサに行ってきたので、だいぶ心が静まりました。聖歌は心も魂も清めてくれるのです。では、始めましょう。
お姉さんが裕人兄さんと結婚することになっていると告げられてから、僕の生活は一変してしまいました。何をしていても頭のなかにそのことがちらつき、何も手につかなくなりました。僕は注意散漫なまま大学を卒業し、心ここにあらずの状態のまま商社に就職しました。……お姉さんは気づいていなかったかもしれないけれど、あの日僕が二度と屋敷へは戻らないと誓って出ていったことを、理解してくれますか? あのときお姉さんは僕のたったひとりの家族でした。誰よりも近しい人であり、信頼し、心を許せる唯一の相手だったのです。そのお姉さんが――、あの、いつも家に居ない冷血漢の妻になってしまうなんて――失礼、言葉が過ぎました。神の御慈悲を――、ともかく僕には耐えられなかったのです。若かったということもあるでしょう。もしかしたら、お姉さんが彼と結婚したあとも屋敷に残って心の支えになってあげることもできたかもしれない。――でも僕はそうしなかった。どうしても、何もかもが嫌だったのです。あのころ僕は、自暴自棄な状態に陥っていました。そんな状態になると、人間何をするかわかりますか? 周囲の景色を、ガラッと変えたくなるんです。そのときたまたま大学時代の友人と会って、僕たちはビジネスの話で盛り上がりました。彼は少し画商の道を齧っていて、パリで若い可能性を持った画家を発掘して、日本へ売り込む手だてを考えていました。僕は大いにその話に乗って、ぜひ一緒にやろうと言いました。幸いお義母様に話したら、喜んで資金を出すと言ってくれましたし。それで僕は早速働いていた商社を辞め、一路フランスへ飛んだというわけです。相方は、僕がある程度の手はずを整えたら、あとからやって来ることになっていました。僕は僕にとって何もかもが新しいパリの景色に胸を躍らせ、ツテもコネもないままに、何日も歩いて大学で習った拙いフランス語で色々な人に聞き回り、ようやくモンパルナスの近くに小さな事務所兼住宅を見つけることができました。でも……そのことを知らせたあと、待てど暮らせど相方は現れませんでした。お義母様の出してくれた資金の大部分を彼に預けていたことを思い出して、僕は不安になりました。メールをしても、電話をかけても、彼はそれに応えなくなりました。何てことでしょう、僕はまんまと騙されたのです。当面必要な分だけしかお金を持ってきていなかった僕は、すぐに困り果てることになりました。
――そこからは、色々です。ビジネスパートナーとなり、やり甲斐のある人生を僕に提供してくれるはずだった彼は、その後僕の人生に二度と現れず、名前を聞くこともありませんでした。でもそれこそ、ここフランスで言うC’est la vieです。〝人はなるようになるべくしてなる〟のです。僕もいまや修道士の身ですからね、人生のことについては一家言持つようになっていますよ。ところで相方に捨てられた僕に、神の恩寵とも呼べる出来事が起きたのです。彼女は――僕よりもだいぶ長く人生を生きている人でしたが、そのときも、いまに至っても、僕の天使であり、聖母の化身であるかのような存在です。本当に、あのころ彼女がいてくれたおかげで、僕は命を救われ、魂を救われたのだと思います。相方に裏切られたショックで、僕は日本にいたとき以上に荒れて、何もかもどうでもいいといったような状態だったんですからね。毎夜バールに行っては安酒を飲み、店の裏や路地で自分の嘔吐物にまみれて目が醒める始末。日本へ帰ろうなんて思いもしませんでした。それくらい心が荒んでいたんです。それに、もうあの屋敷に、自分の帰る場所はないとも思っていましたしね。お姉さんのことが気がかりでなかったわけではないけれど、明日のことさえ考えられなくなっていた僕は、これ以上はないほど酷い状態でした。自分の命さえ投げ捨てそうになっていたのです。
聖母のような彼女と僕は結婚し、晴れて法的にも経済的にもいっぱしのパリ市民になりました。彼女とは三十年近く連れ添い、八十二歳で彼女は亡くなりました。彼女には、より歳が僕と近い美しい娘がいたのですが、厄介なことに、彼女は僕を愛していました。僕が愛するのは彼女の母親だけ、君は愛の対象にはならないと何度も説き伏せようとしましたが、彼女は受け入れませんでした。そして……。数年前、パリで大規模なテロ事件があったでしょう、覚えていますか? 彼女はあの事件に巻き込まれ、心身ともに不自由になってしまいました。僕はそれ以来ずっと彼女の面倒を見ていましたが、修道院に入る数ヶ月前に、とある良心的な施設に彼女を預けました。それ以来、僕は修道院のなかから彼女の体の回復と魂の救済を祈っているのです。
僕が修道生活に入ることになったきっかけを、まだお姉さんに話していませんでしたね。――それは(正直に言わせて下さい)、〝恋〟でした。ひとつの恋が、僕の考えを修道院に入ることに向かわせたのです。パリで僕は、ひとりの日本人女性と出会いました。そのとき彼女はとても疲れているように見えて――そして、いつかの僕のような荒んだ目をしていました。思ったとおり、彼女は何かとても深刻な事情を抱えていて、一見おとなしいけれど何をしでかすかわからない、危なっかしい雰囲気を醸し出していたのを覚えています。そしてこれが不思議なのですが――、抱き締めるとき、彼女はお姉さんとまったく同じ匂いがしたのです。それに、髪も――彼女は真っ直ぐな髪の毛を長く伸ばしていて、その色は漆黒でした。お姉さんの髪も、真っ直ぐで、しっかりとしたコシがあって、同じように漆黒でしたね。僕は彼女を愛するようになったけれど、途中から自分が愛しているのは彼女自身なのか、それともお姉さんの幻影を彼女の上に見ているだけなのか、わからなくなっていきました。彼女がパリに滞在したのはほんの束の間で、ほどなく彼女本来の目的のために別の国へ移っていきました。彼女が発つ直前に、あのテロ事件が起きて娘が重症を負ったことで、僕の生活は様変わりしました。目的地に着いたであろう彼女からは連絡はなく、またひとりの日本人によって僕はパリに置き去りにされてしまったのだと感じました。僕はずっと娘の看護に明け暮れていましたが、ひと月ほど経ったとき、我慢できずに彼女にSNSでメッセージを送りました。彼女はそれに応えず、文字どおり僕の前から永遠に消えてしまいました……。娘の容態が落ち着いてきて、しばらくひととおり病院に任せてもいいという風になったころ、僕は一度彼女が向かった国に行ってさえみました。だいぶ時間が経ってしまっているけれど、もしかしたら彼女はまだその国にいるかもしれないと思って……。結果は徒労に終わりました。国じゅうのどこを探しても、彼女の影さえつかむことはできませんでした。
そしてそのころからです、僕のなかに修道院のことがちらつき始めたのは……。僕は色々と回想したのです。いったい僕をここへ導いてきたものは何だったのかと。それゆえ彼女にあんなに執着しなければならなかったものは、結局のところ何だったのだろうと。――長い逡巡の末に辿り着いたそれは、お姉さん、やはり貴女でした。彼女はお姉さんの幻影を僕に見させてくれたのかもしれません。あとになって、彼女に失礼なことをしたとさえ、僕は思いました。そしてその先、姉である貴女をこんな風に想うことを止められない僕の行くべき場所は、修道院にほかならなかったというわけです。
――僕はもう一度愛せそうな人ができて、しばらく幸せだった。彼女と過ごした日々は、短かったとはいえいまでも僕の生涯の宝です。これだけははっきりと言える。……でも彼女は去ってしまった。どんなに探しても、もう見つけられませんでした。確かに僕は絶望しましたよ。何年かのあいだ、心にぽっかり穴が空いたような日々を過ごしました。人生に、もうそのために生きる価値のある何ものもないって思いました。
でも、最終的にそれは違ったようです。なぜならお姉さん、最後に貴女が残ったからです。いまにしてみれば彼女への想いというものも、もしかしたらお姉さんへ向けたものが本質だったのではないかと思うほどです。それくらい貴女は、ずっと昔からいまに至るまで、僕の心のなかから出ていったことのない唯一の女性と言えるのです。
そしてそして……、これを言わなければならないのは身を切られるように辛いことですが、ついに言うべきときが来たようです。
お姉さん、貴女と僕は、姉と弟ではなかった。
ぎくりとした。何を言っているのだろう、この子は? と思った。