【長編小説】 抑留者 12 最終回
――よく晴れた午後、黒々とした掘っ立て小屋のような家で、涼太はじいちゃんと一緒にいた。板間の上に手をついて、後ろに反り返るように座るじいちゃんの股のあいだに小さな体をすっぽりと埋めて、そのなかにいるとなぜか安心するじいちゃんの匂いに包まれながら、厚く高ぼったカチカチの足の爪を切ってやっていた。
じいちゃんの足は水虫だらけで汚いから触ってはいけないと母親の時絵に口酸っぱく言われているのだが、じいちゃんの家に来てしまうと、涼太はすぐにそんなことは忘れてしまう。目の悪いじいちゃんの代わりに、足の爪を切ってあげるのは、涼太の楽しい役目になっていた。
――じいちゃんは、何でここの家に住むん?
涼太は顔を上げて聞いた。涼太はじいちゃんのところに来るたびに、この質問をする。すぐ近くに自分たちの住む、近代的な設備を備えた快適な家があるのに、わざわざ好んでこのすきま風の入り込むあばら家にじいちゃんの住む理由がわからなかった。
「ここに住んじょるとの、友だちがおるような気がするんよ」
じいちゃんも毎回こう答える。でも、涼太にはその意味がわからなかった。こんな壊れかけた、寂しい感じのする小屋で、いったいどんな友だちがいるような気がするというのだろうと不思議でたまらない。それに、「じいちゃんをこのような環境に置いて放ったらかしにしている」と親戚や近所隣から責められるといつも母親がこぼしているので、それを聞くたび涼太は悲しい気持ちになるのだった。
「じいちゃん、僕たちのとこに一緒に住めばいいのに」
子どもらしい純情で、涼太は言った。無垢な魂から発せられるその言葉を眩しいとでもいうかのように、じいちゃんは自分の顔の前に手の甲をかざして、「言うな」というようにそれを振り下ろした。じいちゃんはそれきり何も言わなくなった。
そうして、涼太も黙り込んだ。二人はもう何度もこれと同じ会話を繰り返してきたものだ。けれど決してじいちゃんの気持ちを変えることはできなかった。
学校から帰ると、尚文叔父の姿がなかった。いつもなら分棟の部屋で何かゴソゴソしている気配を感じるのに、それがない。朝はいつものように、じいちゃんの朝食の盆を運んでいるのを見かけたのに。
そういった日常におけるわずかな変化は、涼太の心に不穏なさざ波を立てていた。
「今日はおいちゃんがおらん」
携えて帰ったばかりの嬉しいニュースをじいちゃんと一緒に聞いて欲しかったのに……と残念に思いながら、涼太は言った。
するとじいちゃんは、孫の小さな頭をぽんぽんと叩きながらこう言った。
「おいちゃんは、大事な用事ができて東京に行ったんよ」
優しい、柔らかい声だった。何で? と涼太は聞いたが、じいちゃんはただ笑って答えない。
「明日帰ってくるん?」
ことわけのわからない不安な思考のまま、涼太はまた聞いた。あの大きな図体をした叔父の突然の不在は、いくら口数の少ない人であったとはいえ、子供の心には大きな穴だった。
「いやあ。いっとき戻らんかもしれんの……」
じいちゃんは、のんびりとした声でそう答えた。涼太が背中で受けるその声は、笑っているようであった。
涼太はさっき、学校から帰ってきたときに母屋の居間で母親とじいちゃんが話しているのを見たことを思い出していた。じいちゃんがこの小屋ではなく母屋のほうにいるのを見るのは初めてだった。
……俺が行けって言うた……とか、……東京でしたいことがでけたんじゃろ……とか言っているじいちゃんの声が、廊下で聞き耳を立てている涼太に聞こえてきた。それに対して母親が、「尚文くんから頼まれた」とか「私で大丈夫でしょうか」とか色々な言葉を早口で言っている。またそれに、じいちゃんが小声で何かブツブツと答えていた。
最終的に、母親は泣いているようだった。しばらくのあいだ、会話は途切れた。
結局何のことだったのかわからないまま、あとからじいちゃんの家に遊びにきた涼太は、いつもと変わらないじいちゃんに迎え入れられたのだった。
ともかく、今日大切に胸に抱いて持ち帰ったニュースをじいちゃんに真っ先に伝えようと思って涼太は言った。
「……じいちゃん、僕、作文書いたんよ」
ぱちん、という爪切りの音とともに、じいちゃんの親指の爪の緑色をした大きな塊がひとつ、土間のほうへ飛んだ。
「ほう。どげな文を書いたんか?」
感心したようにじいちゃんがちょっと身を起こす。じいちゃんの話を書いて、作文コンクールで賞をもらったことを、なぜか照れ臭くて言い出せない。涼太はもじもじしながら、またひとつ緑色の爪の塊を飛ばした。
じいちゃんの昔の話は知る由もない涼太が書いたのは、この掘っ立て小屋で過ごす二人の密な時間のことだった。いまも目を上げれば遠くに透明がかった水色の海が優しくきらめき、小屋の壁板と壁板のすきまを潮の匂いのする風が吹き抜けていく。話の途切れた間はざざ……という耳をくすぐるような波音が埋めてくれる。そういったことを、子どもらしい素朴な言葉で涼太は書いた。学級担任の染矢先生は、その作文がとてもいいと言って、褒めてくれたのだ。それがそのまま県の主催する作文コンクールに出品されて、優秀賞を取ったのだった。
「んー……。じいちゃんと僕のこと。あとで持ってきて、読んであげるな」
下を向いたまま、お尻がむずむずするのを感じながら涼太は言った。すると、涼太を包み込むじいちゃんの匂いが一瞬濃くなったような気がした。
「お前が生き甲斐よ!」
と、じいちゃんは涼太の頭を掻きむしるようにしてなでた。そして、放心したように、遥か向こうの海を見やった。
終
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