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映画『TAR/ター』感想 権威からの脱出を描く音楽スリラー

 ブラックな描き方ですが、音楽芸術への本質的な愛を感じる作品でした。映画『TAR/ター』感想です。

 アメリカの5大オーケストラで指揮者を務めた後、女性初のベルリンフィルの首席指揮者に就任して7年になるリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、作曲者としての評価も不動のものとなり、音楽家として生ける伝説となりつつあった。パートナーでヴァイオリン奏者のシャロン・グッドナウ(ニーナ・ホス)と、養女であるペトラ(ミラ・ボゴイェヴィッチ)との幸せな暮らしを得て、優秀なアシスタントのフランチェスカ・レンティーニ(ノエミ・メルラン)も、ターをしっかりと支えている。ターが愛するマーラーの楽曲で、唯一ベルリンフィルでの録音を果たしていない『交響曲第5番』のライブ録音は翌月、さらに自伝の出版も控え、彼女のキャリアは頂点に達していた。
 レコーディングのリハーサル、作曲への重圧に悩みながらも、自身の音を模索し続けるターの元へ、かつて自身が指導した若手指揮者のクリスタが自殺したという報せが入る。動揺するフランチェスカに、ターはクリスタとのメール履歴を消去するように指示を出す。また、ターの独断で起用された新人チェリストのオルガ・メトキナ(ソフィー・カウアー)の出現は、楽団の中でも不信の種となり、わずかずつターの周囲で不協和音が鳴り始める…という物語。

 『イン・ザ・ベッドルーム』『リトル・チルドレン』で知られているトッド・フィールドの、何と16年振りとなる新作映画。主演のケイト・ブランシェットの演技は軒並み高評価を得て、アカデミー賞は『エブエブ』のミシェル・ヨーに譲ったものの、ヴェネツィア国際映画祭やゴールデン・グローブ賞で女優賞を獲得しています。
 
 トッド・フィールド監督は、ケイト・ブランシェットの主演ありきで企画して、出演が叶わなかった場合は企画そのものをお蔵入りにするつもりだったそうですが、それも納得の作品になっています。「リディア・ター」というフィクションのはずの人間そのものを、具現化させるような物語、その輪郭をはっきりさせるケイト・ブランシェットの演技に、感動するよりも戦慄してしまう恐るべき作品です。
 
 冒頭でのターが出演するトークセッションのインタビューで、延々と芸術論が語られていますが、まるで実在する音楽家のドキュメンタリー映像のような実感があるものなんですよね。「指揮者はタクトで音と時間をコントロール出来る」という考え方も、ケイト・ブランシェットは完璧に理解して、自分の考えとして述べているかのような姿になっています。クラシック音楽にはさほど造詣が深くないので何とも言えませんが、相当なリアリティある演技・演出になっているのではないでしょうか。言動の一つ一つに説得力があるんですよね。
 
 この序盤部分を冗長と捉えてしまう人もいるかもしれませんが、「リディア・ター」という音楽家のドキュメント作品と捉えるならば、物凄く良く出来た場面だと思います。実際の作品を聴かずとも、その偉大さ、カリスマ性を理解させるものになっています。それでいて、その偉大な評価が後半で見事に反転する伏線にもなっているんですね。
 
 教え子の自殺を契機にして、ターはスキャンダルの標的になり評価が大きく変化し始めるわけですけど、実際にハラスメントがあったのか、ターがどのような過ちを犯していたのかは明確にされない描き方になっています。これによって、我々観客は、ターに対して、作中の世界の大衆と同じ距離感を保つ形になっていると思います。
 序盤でのターのカリスマ性は、全てをコントロールするリーダーシップ、天才的なこだわりという形で見えていたのですが、明確にされないハラスメント疑惑によって、それらは独善的で傲慢な「権威」だけの人間だったのではないか、という疑惑に変化して、いわゆる「手の平返し」の気持ちを持たせられる仕掛けになっているように感じられます。
 
 ターの転落は決定的、劇的なものではなく、じわりじわりとにじり寄るような進み方になっていますが、それを演出する不可解な「音」のシーンも素晴らしいですね。序盤は密着ドキュメンタリーのようなリアリティですが、ここはスリラーのような不可解さで、とても映画的な演出になっています。
 ターのジョギング中にどこからか聞こえてくる悲鳴、知らぬ間に鳴り続けていたメトロノーム、夜中に気になり出す冷蔵庫の作動音など、ターの神経が蝕まれていく表現であると同時に、「ターのコントロール出来ないところでも鳴り続けている音がある」という表現なんだと解釈しました。これによって、先述した序盤のインタビューでのターの言葉を見事に打ち砕くものになっています。
 
 ターが全てをコントロール出来ていると思っていたのは、ター自身とその周辺の人間でしかないことに気付かされるという展開は、権威と化した「リディア・ター」を矮小化させるものですが、それと同時に、ターの知らない世界が広がっているということに繋がっていくのも見事な脚本です。
 アパートの向かいに住む、精神障害を持つ娘とその介護を受ける老母、その親族たちはターが優れた音楽家ということも知らないというのは、ターの転落人生を演出しているように見えますが、ターが知ろうとしていない世界の側面の1つということなんだと思います。
 それは終盤での東南アジアの国において、ターが経験していく事と連なっているんですよね。ベルリンにはない大自然の音、番号札をぶら下げて選ばれるのを待つ表情のないマッサージ女性たちを目前にして嘔吐してしまうなど、全てを究めたように見えていたターにも、知らない世界(知ろうとしていない世界)、聴いたことのない音が存在していたという事実の表現になっているように感じました。
 
 余韻も何もかもをぶった斬るような幕引きも、賛否が巻き起こるものですが、確実に言えることは物語の終わらせ方としては新しい表現になっているものだと思います。そもそも、ハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか、観た人の解釈に委ねられる、はっきりとさせない結末になっていますが、それはターの行いが赦せないと思う人と、キャンセルカルチャーによって失われるものの損失を考えてしまう人に分かれてしまうことを見越して、はっきりとさせないものにしているように思えます。それを強調させるために、余韻ある映画的な終わらせ方を、あえて捨てているものにしているのではないかと考えています。
 
 自分は、キャンセルカルチャーによって失われるものを惜しんでしまう人間なので、個人的な解釈では、音楽にしがみ付くターの姿は圧倒的に正しいものと感じます。
 過ちを犯した人間が糾弾され、名声を失うのは当然のことですが、それまでの作品などを消滅させたり、新たに創る機会を奪ったりすることには反対したいと考えています。それしか生きる術を持たない人のやり直す機会は奪われるべきではないし、逆に言えば、それを奪われたからと言って、犯した罪が赦されるかというと、それも違うのではないかと思います。
 今作のリディア・ターのように、どんなに石を投げられても、白い目を向けられても、自分にしか出来ないことをやり続けるということが、芸術家の正しい姿であるようにも感じられました。
 
 そういう意味では、この作品は凝り固まった「権威」そのものと化した音楽家が、そこから脱する物語だったように思えます。転落劇を描いたスリラーか、栄光にしがみ付く芸術家を嘲笑うものか、いかようにも解釈が取れる結末ですが、個人的には真の音楽家が誕生した瞬間を描いたものと捉えています。映画表現としても挑戦的だし、ケイト・ブランシェットの演技作品としても最高傑作の一つになるであろう、凄まじい作品でした。


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