映画『ハウス・オブ・グッチ』感想 「グッチ」という名前の呪い
リドリー・スコット、アダム・ドライバーは共に傑作続き。映画『ハウス・オブ・グッチ』感想です。
巨匠リドリー・スコットによる最新監督作品。2021年の『最後の決闘裁判』が大傑作だったので、御年80を超えてなお、絶頂期に達しているような充実っぷりを感じさせましたが、今作もまだまだ衰え知らずの傑作となっています。
今、何をやらせても名演となるアダム・ドライバーに、老年太りな姿が素晴らしい名優アル・パチーノという豪華キャストの中で、レディー・ガガが気炎を吐く演技というのが面白いですね。まさに、グッチ家に嫁いできた外様の嫁という姿に重なります。初主演作『アリー/スター誕生』では、ミュージシャンとしての自分を表現していたようですが、今作でもレディー・ガガ自身のアグレッシブな部分を見事に表現していたと思います。自分の事をよく理解しているし、魅せ方が上手いですよね。
予告やオフィシャルのあらすじでは、ガガ演じるパトリツィアが、グッチ家を崩壊に導く希代の悪女というようなイメージがあったし、史実でもそうみたいなんですが、今作を観ると、そういう描かれ方とはちょっと違っているように感じられました。
パトリツィアという女性自体は、アプローチが積極的なだけで、マウリツィオと普通に恋する女性という印象なんですよね。もちろん家がお金持ちというのも魅力のひとつと感じていたかもしれませんが、それくらい不純な動機があってもいいと思うんですよね。マウリツィオが父親と縁を切ってまでプロポーズしに来た時は感動して泣いていたんだし。
グッチ家の中でマウリツィオの発言力を高めようと焚きつけるのも、夫を盛り立てようとする行為なだけなんですよね。元々が肉食系なのもありますが、それが強引なやり口になっていく変化には、「グッチ」という家の名前によるところが大きいんじゃないかと思います。
マウリツィオにしても、経営には興味のない実直な青年だったのが、家族内、経営者同士の駆け引きを積極的に仕掛けていくようになるのも、「グッチ」という名に囚われた結果に見えてきます。そうすると、ロドルフォやアルドは、グッチ家のトップというよりは、最初からグッチという実態のない名前の奴隷に思えてきます。
唯一、パオロのマヌケさは、グッチの名前によるものではなく、デザイナーとしての名声欲という人間的な部分によるものとして描かれていると思います。だから、滑稽さが際立つんですよね。ジャレッド・レト、これ演じるの楽しそうですよね。なかなか無い極端なキャラでした(史実のパオロは、問題ある人物とはいえ、ここまでのポンコツではなさそうですが)。
今作で描かれるグッチ家の崩壊は、グッチ家という名前がブランド「GUCCI」に変化していく過程を描いているように感じられました。その原因はパトリツィアでも、グッチ家の人々でもなく、資本主義から生まれる「企業」という実態のない怪物として描かれているんだと思います。それが、人間の愚かしさというドラマの中に隠されたホラー要素に感じられて面白かったです。
オープニングとクライマックスでの、マウリツィオが自転車で疾走するシーンは、グッチという名前から解放されている顔なんでしょうね。この時に、ようやく実直な青年・マウリツィオに戻っているということなんだと思います(そしてその後の結末に向かう…という)。アダム・ドライバーはまたしても名演になっています。
個人的には、マウリツィオとパトリツィアの娘がその後どうなったのか、気になってしまいました。『機動戦士ガンダム』で言うところのミネバ・ラオ・ザビみたいなものですよね。
物語の面白さと共に、音楽面での演出も巧いですよね。クラシックやオペラなどの荘厳さと、物語と同時代の80’s、90’sポップスを同列に使用して、セレブの高貴さと、その内側の軽薄さを演出しているんだと思います。音楽自体は軽薄なものではないと思いますが、全部聴いたことある有名曲というので、全てが軽薄に感じられるようになっているんですよね。
現在のグッチ家の人々からは、史実や人物造詣にクレームが付いているそうですが、この辺りは言われるのを承知の上で突っ走って作っている感じがしますね。「面白ければ訴えられるくらい、上等!」という姿勢は、日本映画では出来ないマネだと思います。
リドリー・スコット、傑作続きで凄いですね。あと何本くらい撮れるのか心配になる年齢ですが、この絶頂期、もう少し期待させてもらいたいものです。