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映画『最後の決闘裁判』感想 現代まで続くクソ価値観への批判


 男性マッチョイズム、女性蔑視がいかにクソであるかを描いた傑作。映画『最後の決闘裁判』感想です。

 1368年の中世フランス、騎士のジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)は、王のために各地で戦う歴戦の勇者。幾度となく修羅場を共にしたジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)とは、戦友同士として信頼し合う仲だった。だが、2人が仕えるアランソン伯爵ピエール(ベン・アフレック)は、直情的なカルージュを嫌い、ル・グリを信頼し、重用していた。カルージュの苛立ちは、ピエールと共にル・グリにも向けられ、カルージュの父親が亡くなり、その後継役職がル・グリに与えられたことで、2人の亀裂は決定的なものとなる。
 カルージュが遠征から帰還すると、妻のマルグリット(ジョディ・カマー)から留守中に暴行されたと告白される。犯人はル・グリと告げられたカルージュは、裁判で訴えるが、ル・グリは暴行を否定。真実を決めるために、カルージュとル・グリは命懸けの決闘に挑む…という物語。

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 エリック・ジェイガーのノンフィクション本『最後の決闘裁判』(早川書房刊)を原作に、巨匠リドリー・スコットが監督した作品。脚本には、出演者でもあるマット・デイモンとベン・アフレックが参加しており、この2人での脚本作品は名作『グッド・ウィル・ハンティング』以来だそうです。

 実話をベースにした歴史ものということで、あらすじだけを読むと、勇ましい騎士を描いた物語のように感じられますが、実は中世における「#metoo」を描いた物語となっていて、現代でこそ鳴らされるべき警鐘のような映画作品となっているんですね。

 物語は、カルージュの視点から始まり、あらすじにある通りのストーリーが描かれるんですけど、その後、視点がル・グリに変わり、全く同じ時間軸でのストーリーが描かれます。そして、その後で、3人目のマルグリットの視点が描かれて、初めて真実が浮かび上がってくるという構造になっています。芥川龍之介の『藪の中』方式に近いものになっているんですね。

 カルージュの視点では、勇猛でありながら世渡り下手の不器用な騎士という見え方が、ル・グリの視点では、気遣いが出来ず知能が足りていない人間となり、ル・グリ自身は上司との板挟みでも上手く立ち回る気遣いの苦労人のように見えるというものになっています。こういう同じものを、視点で変化させて描くという方法はありますが、今作の面白さは一級品ですし、それだけにとどまらないのが、3人目のマルグリットの視点ですよね。

 『藪の中』では誰が本当のことかわからないという描き方ですが、今作は完全にマルグリットの視点が真実であると描いている形になっています(マルグリット視点も主観で創られたものという解釈もあるようですが、僕はそうは感じなかったので、こちらの解釈になっています)。
 マルグリットが見た真実では、ル・グリの暴行は当然ながら、実はカルージュの夫としての振る舞いにも多分に女性蔑視が込められているのが描かれています。ここで初めて、この物語の主人公がマルグリットであり、この物語は女性が虐げられる価値観の醜さを描くものだと理解できるようになっています。

 カルージュは、美しい妻を自分の所有物で後継ぎを産むためのもの(まさに「産む機械」!)として扱い、ル・グリは道ならぬ慕情からマルグリットに手を出したとしていますが、その実はカルージュの所有物である妻を奪い鼻を明かすためという動機なんですよね。つまり、2人の騎士は、自分の名誉を守るだけで、マルグリットを人として見ていないんですよ。

 そして、この2人の男がクソなだけではなく、この時代の制度、価値観というものそのものが、女性を人として見ていない、クソなものということをはっきりと描いています。決闘で夫が敗北すれば、告発は偽証となって妻は偽証罪で火あぶりになるというのも理不尽極まりないし、暴行された事実を公表して訴えたことを姑から非難され、さらに裁判での聴取は、紛うことなきセカンドレイプとなっています。

 恐ろしいのは、死罪となる点以外は、これらが現代でも起こり得る内容ということですよね。1300年代から2000年代に至るまで、明らかに間違った価値観が続いていたという事実が、現代の社会に生きる我々に重くのしかかってくることになっています。ただ単純に当時の時代を描いたものではなく、時代劇であると同時に、まさしく現代を諷刺しているんですね。ものすごくハイレベルなメッセージ性を持った脚本だと思います。

 その強烈なメッセージ性を持たせつつ、きちんとエンタメとして「面白い」というのも強みですね。戦争シーンが幾度となく描かれていますが、ここがきちんとリアリティある壮絶なものになっていて、血煙が舞い、肉が砕ける音が聞こえるような壮絶な殺し合いが再現されています。
 クライマックスでの一対一の決闘も、日本映画時代劇の果し合いのように美しいものでも何でもなく、泥臭い殺し合いが繰り広げられています。
 でも、この決闘はマルグリットのためでも何でもない、陳腐な「男の名誉」のためによるものなんですよね。この戦いが壮絶であれば壮絶であるほど、それが女性を置き去りにして行われているものと矮小化されていきます。

 全てが終わった後、群衆が熱狂的に勝者を称え、敗者の遺体を吊し上げる醜い様が描かれますが、この場面の批評性は、この物語を「面白い」と感じて消費しようとしている我々観客へ向けられているようにも感じました。
 僕は女性蔑視に反対する意見や、LGBT、人種差別など、マイノリティを救う意見や作品を好む立場ですが、そこには「偉そうな奴らにカウンターを加える」という物語としての痛快さを求めているというのは否めないんですよね。応援や支持はもちろん力になる場合もあると思うんですけど、部外者に物語エンタメとして消費されるというのは、当事者からしたら不快に感じる場合もあるかもしれないですよね。

 熱狂する群衆の声の中にある、死んだような瞳のマルグリットは、この事件が何の解決もしていないし、また、現代までずっと続いているということの示唆だと思います。このシーンのジョディ・カマーの演技、最高の仕事になっています。この物語を「面白かった」で消費させない、力強いメッセージに感じられました。

 それにしても、御年80代にもなってこんなに現代的なメッセージ作品を撮れるリドリー・スコットの監督手腕にも脱帽しました。マット・デイモンとベン・アフレックの脚本も素晴らしいですが、きちんと主題を効果的伝える画面作り、構成も見事です。『エイリアン』『ブレードランナー』ぐらいしか観ていなかったんですけど、思い切りイメージが覆りました。ジジイだから古い価値観のままなんて、何の言い訳にもなりませんね。

 上映時間は3時間に及ぶ大作ですが、思い切り画面に引き込まれていました。暴行シーンなど、人によってはショッキングな場面もありますが、若い人に教科書的に見せても良いんじゃないかと思います。


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