見出し画像

映画『関心領域』感想 過去と現在の罪悪から目を逸らすな

 物凄く冷静でありながら、激しい怒りを持って、この世の不快さを表現しています。映画『関心領域』感想です。

 第2次世界大戦下、ポーランドのオシフィエンチム郊外にあるアウシュビッツ強制収容所。所長のルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)は、収容所の隣地に自宅を構え、家族と仲睦まじく暮らしている。特に妻のヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒュラー)は、自ら設計した植物に囲まれた庭があるこの家を理想の生活と考え、幸せの絶頂にいた。だが、ルドルフの昇進による異動が命じられ、収容所を離れることが決定する。ヘートヴィヒは、生活を手放すことを拒み、夫ひとりで移転することを申し出る。そんな日々の中、今日も強制収容所からは、ユダヤ人の断末魔の声があがり、身体を燃やす煙が立ち上っている…という物語。

 マーティン・エイミスの同名小説を原作として、ジャミロクワイのMVや、『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』の監督として知られるジョナサン・グレイザーが脚本と監督を務めた作品。先のアカデミー賞でも国際長編映画賞と音響賞を受賞し、カンヌでもグランプリを獲るなど、各所で絶賛されています。
 
 ナチスが行った強制収容所でのユダヤ人大量虐殺は人類史に残る汚点であり、多くの映画作品でもその所業を描いているわけですが、それを全く新しい角度からの表現で記録しようとした作品となっています。
 今作での、収容所での出来事は映像に映ることなく、遠くの音響のみで、その恐ろしい出来事を描いているのが特徴になっています。前評判でそのシチュエーションは知っていたものの、本当に耳を澄ませて聞こうとしなければ、わずかな雑音にしかならないという聞こえ方なのに驚かされました。観る方に能動的な姿勢を求める作り方になっているんですよね。
 
 物語自体のメインは、収容所の所長であるヘスとその一家の生活になっていて、それも非常に淡々としたものになっています(あらすじだけで読むなら、ユニコーンの代表曲「大迷惑」の歌詞そのものなんですよね)。
 原作小説は、その周囲の人々を含めたドラマがきちんとあるようですが、この映画脚本はそこをバッサリとカットして、シチュエーションだけを映像化したものになっているようです。
 人物を一切クローズアップすることなく、引いた視点のカメラワークが、すごく印象的なんですよね。この物語や人々に対して、一切感情移入をさせないという冷徹な視点に思えます。
 
 映画表現としては、非常にわかりにくい、伝わりにくい手法をあえて使っているので、とても難解なものになってはいますが、かなり史実の出来事を忠実に再現して、取り入れているようです。サーモグラフィの映像で表現される「リンゴの少女」は、実際に収容所の外から食べものを与えていたユダヤ人の女性に取材して出来たエピソードだそうですし、ヘスの転属に対して妻のヘートヴィヒが怒鳴ったという記録も実際にあるそうです。
 少女が弾くピアノの旋律に、歌がないのに字幕を付けているのは、実際に収容所内にいたヨセフ・ウルフというアーティストが書き留めていた楽曲と詩を取り入れているそうです。作品内だけでは理解できない事実を、あえて表現に使用しているんですよね。
 
 作品内で起こる恐ろしい行為が何の説明もなく、微かに「そのことなのか?」と違和感を抱く程度に抑えることで、不快な感触のみを残す仕掛けをしているんだと思います。そして、鑑賞後に実際にどんなことを描いていたのかを調べさせるという、いわば啓発教育的な趣旨を持った映画なんですよね。これまでのナチス映画も、そういう趣旨はもちろんあったはずですが、そもそも映画というものが受け身にならざるを得ない芸術なので、どうしても作品を観るだけで終わってしまうことも多いと思います。この作品はそれを先に進める画期的な手法で描かれていると思います。
 
 パッと観た段階では、この世の地獄がある施設の隣に暮らし、その所業に関わりながらも、そこに「関心」を持たずに平穏に暮らす人間たちを、批判的に描いているように思わせますが、それはかなり意識的なミスリードによるものだと思います。ヘス一家の普通の暮らしを描きながらも、そこに入り込む不穏な描写の数々は、観客への表現だけではなく、一家にとっても見て見ぬ振りをするしかない=意識せざるを得ないものになっています。川遊びの最中に流れてくる遺灰、収容所の煙を見つめて耐えられず家を出て行くヘートヴィヒの母親、そしてクライマックスにある嘔吐のシーン(完全に『アクト・オブ・キリング』オマージュ!)など、実はこの一家が「無関心」ではいられなかったということの証左になっているんですよね。
 
 そして、この所業に対して、我々観客がどれだけ「関心」を持てていたか、これからどれだけ持てるかということを突き付けて来ているというのが、本当のメッセージだと感じます。
 そのため、意識的に芸術性や物語性、面白さというものを排除して、エンタメとして消費することを許さない作りにして、能動的にこの歴史事実に向き合うことを要求しているように思えます。ラストで映される博物館施設として残された収容所も、淡々と施設掃除をする職員の姿にも、感情は持たせずに「無関心」を意識的に描いているように思えます。それと同時に「民族浄化」を行った施設を「掃除」するという痛烈な皮肉にもなっていると感じられました。
 その現代からまた時代が戻り、暗闇へ向かう階段を下るラストショットも、非常に恐ろしさを感じさせるものでした。子どもの頃に怖く感じていた「闇」が、確かに存在しているような場面です。
 
 何よりも忘れてはならないのは、その不快な恐ろしさが過去の歴史だけでなく、2024年の時点では現在進行形で続いているという事実ですよね。ジョナサン・グレイザー監督がアカデミー受賞スピーチの際にパレスチナのガザについても触れていましたが、そこにユダヤ系のハリウッド業界人たちが抗議を送ったというのは暗澹たる気持ちになります。まさしくこの作品で描いた恐ろしさが、立場が逆になった形で、今でも続いてしまうということが証明されてしまったということですよね。
 
 心地好いアンビエント音楽というものがありますが、その真逆で創られた不快なアンビエント・ムービーです。そして、この不快さが確実に存在した歴史的事実から生まれたもの、現在も確実に存在しているもの、これからも起こり得るものであるということを、不愉快な記憶と共にいつまでも心と頭に刻み込んでいきたいと思います。


この記事が参加している募集

#映画感想文

66,844件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?