今までわたしは、 構造や展開をある程度さきに練ってしまってから音を置くことがほとんどだったけれども、 最近はそこから離れだしている。 それは、”最近のわたし”の中に、 「予め決めておいた構造に沿って置かれた音たちが、みな屍のように感じる感覚」が生まれてきたからだ。 とはいえ、そもそも、これまでわたしが練っていた構造そのものも、なにか論理的な根拠に基づいた構造ではなく、自分の価値基準(自分にとってその音が美しいか、面白いか、つぎにどのような展開になったら面白いか)を満たすた
とある作品がとある場所で公開されることになったので、先日、その報告を兼ねて約2年ぶりに師匠と話しをした。(とはいえ電話越しに15分程度)(というか話し、ならば2年どころではなくもっと…4年振りくらい) 話すのが久しぶり➕かなり突然な電話 だったので師匠が出るまでのコール中、相当緊張していたけれど、 「は〜い、もしも〜ぉし」 という間の抜けた第一声で、師匠と出会った最初の日からのすべての出来事を一瞬のうちに思い出し、不思議と学生時代と変わらない感覚で、自然な(…自然ではな
今朝、ビル・エバンスのトリオのアルバムを聴いた。 わたしは、彼の出すピアノの音の行く先を追うのが好きだ。 ジャズは将棋に似ていると思う。 それから、ボクシングにも似ていると思う。 思考の末の一瞬の閃き。 膨大な経験から生まれる未知。 このところ、 楽譜の前に座っては空白の五線を眺めて終わる日々が続いている。 ビル・エバンスよ、、 いっそわたしの楽譜の上を歩いて足跡を残してくれませんか。
最近思うこと。 できないことをできるようになることも必要だけど、それよりも、できないことを一旦諦めて、できることにだけ全力を注いで磨き上げた方がいいと思う。というか、この方が自分には合ってると感じ始めている。かといって、できないことをできないままにしておくのは悔しいことではあるけれど。それは余裕があるときにやろうくらいに考えるようにしている。 …そして、こういうことを考えるってことは、わたしは自分が思っているほどネガティブな人間ではないのかもしれない。 都合のいいように
今年できたこととできなかったことを振り返ります。(ただ書き出すだけです。) まず、 今年の初めに考えていた「今年中にやりたいこと」とその結果 1⃣曲を書く(あれと、あれと、あれらと、あれ) →あれ①もうすぐおわりそう →あれ②書けました。 →あれ③④全然まだ 2️⃣パソコンを買い替える →買いました。 3⃣三善晃のヴァイオリンソナタの楽譜を入手する →自分の誕生日に買いました。 4️⃣日記をかく習慣をつける →毎日はきびしいけど、去年よりは書けました。
今年ももうじきおわる。 今朝、なんとなく「そりすべり」を弾いた。 そりですべる分にはいっこうに構わないけれど、人生はすべりたくないとおもう。 クリスマスというイベントを心の底から楽しめたことがないかもしれない。 楽しい場にいると、 「たのしんでいる自分」を冷めた目で見下ろすもう一人の自分があらわれるからだ。 今年もいろいろあったなあ(べつにさほどいろいろないけど)と思いながら、日記帳をめくってみる。 そこに書き込んであることの中には、 こんなことで悩んでいたの
わたしは 七瀬 という名前になる予定だったらしい。 何かの折に母親からきいた。 わたしより少し先に生まれたご近所の子供が七瀬という名前になったことや、苗字と合わせた時の語感や、その他諸々の理由により候補から外れて、最終的に今の名前に決まったようだ。 日頃、自分の名前についてなにか特別思うことはないけれど、今の名前と別な名前になる可能性があったのかと思うと、不思議な気持ちになる。 同時に、七瀬 という名前は個人的にすごく好きな名前でもあるから(他にも、千尋(ちひろ)、淑
わたしにとっての「その日の天使」は、Lili Boulanger だと思う。 あたたかい飲み物片手に窓の外を眺めつつ、 決して多くはないLili Boulanger の作品を、 ひとつずつきくことが最近の朝の日課になっている。 そうして彼女の作品に触れていると、まるで 彼女のあたたかい両手の中で優しくいだかれているような感覚に陥る。 自分の中の焦りや悩みがときほぐされていく。 ホットチャイの湯気越しに外の景色を見る。 ぼんやり、Lili Boulanger の
マリンバの音は、思いがけず水のような音がする。 柴田南雄氏の「カドリール」をききながら、そんなことを思った。 思いがけず、とつけたのは、楽器の姿かたちからは「水」というイメージは程遠い物のように思えるからだ。そもそも、これは木製の楽器であるのだし。 わたくしは、この「カドリール」という作品を今日初めてきいた。 聴きはじめてしばらくしてから、 「これは、ししおどし にインスピレーションを受けて作ったのではないか?小鼓が竹筒で、マリンバが水なのではないか?」という考えが頭
大切なものは失ってから気づく とよく言うけれど、 本当はそうではなくて、 失ったものが特別大切なもののように感じるだけ なんだと思う。
曲を作ること ピアノを弾くこと 思ったことを手帳に書くこと すきな食べ物を食べることやすきな食べ物について考えること 歌を歌うこと 朝カーテンを開けること 家中掃除機をかけること 物を元あった場所に戻すこと ボタンを押すこと 美しいものをみること 怪談をきくこと 鍵を開けること ピアノを弾く人の指をみること ダンスをする人の動きをみること 本を読むこと 映画をみること 漫画を読むこと 詩を読むこと ハムスターの行動を眺めること みかんの白
犬を飼え、と母親から言われ渡される(あるいは預かる?) わたしは既にハムスターを飼っている 犬には何故か首輪やリードがないため(何故かさせてはいけないという約束がある)、散歩させるときは常に抱いている ある時、犬をすこし手から離したら森の奥へと行ってしまった。焦る。 追いかけても、どんどん向こうへ行ってしまう。 そして、何故か同時にハムスターも逃げてしまう。犬と同じ方向に逃げたあと、1度こちらに戻ってきて、また反対の方向に逃げてしまった。ハムスターは、すばしっこいがわたしに
最近思った(わかった?)こと。 作品は、すぐ取り掛かって、勢いのあるうちに仕上げてしまうのがいいということ。 じっくり書くのもいいのかもしれないけれど、あんまり時間がかかりすぎると、着手しはじめたころの自分がどんなことを考えていたか、忘れてしまう。作品の鮮度も落ちる。気がする。 正直、このことは前から薄々気づいてはいたのだけれど、柴田南雄の「いま、何のために音楽するのか」(「日本の音を聴く」収録)を読み進めていくうちに、確信に変わった。 柴田氏は、だいたいどの曲も20
最近、通勤電車の中で柴田南雄の本を読んでます。「日本の音を聴く」という本。 これ、実は大学のとある講師から借りていた本なんですが、、ずっと返しそびれて、結局貰ってしまいました、、、(本人にも「あげるつもりで貸したからいいよ」と言われました、、) この本を読んでいて思ったことのひとつが、 柴田南雄はかなりマメに制作時期のメモを取っているんだなと。普通なのでしょうか?何月何日にはだいたいこの辺まで書いただとか、この日には清書を終わらせただとか。。 わたしはあまり制作過程を
本日、Amazonプライムでシンエヴァンゲリオンを視聴しながら、わたしは映画とは無関係の色々な思索をしていた。 これは映画に集中していないというわけではなく、むしろその反対で、 わたしが作品に没入している証拠である。 シンエヴァンゲリオンの視聴は、本日が二回目。 わたしはいつも、なにかの作品に真剣に見入っていると、自分の精神世界にいつのまにか入っている。作品の鑑賞を通して得られるエネルギーが、わたしの脳に刺激を与えるようだ。鑑賞する作品の精度(清度)が高ければ高いほど、思