5月20日

今までわたしは、
構造や展開をある程度さきに練ってしまってから音を置くことがほとんどだったけれども、
最近はそこから離れだしている。

それは、”最近のわたし”の中に、
「予め決めておいた構造に沿って置かれた音たちが、みな屍のように感じる感覚」が生まれてきたからだ。

とはいえ、そもそも、これまでわたしが練っていた構造そのものも、なにか論理的な根拠に基づいた構造ではなく、自分の価値基準(自分にとってその音が美しいか、面白いか、つぎにどのような展開になったら面白いか)を満たすために便宜的に用いていただけだった。

そしてその構造を用いていたのは、
怖がりのわたしの性格上、なにも決めずに音を書き始めるということに恐怖心があったからだったのだろうと思う。(もちろんそれだけではないが。)

しかしこの頃は、むしろ、これからどうなるかわからない という状態に身を置いて、次の音を次の自分に託すこと、あるいは、構造すらも作曲(即興)していくこと が楽しいと感じるし、そのようにして作曲していく瞬間を楽しみ続けたいと思っている。(とはいえ一方で、なにかしらの規則を自分で定めた上で、規則通りに進めたりあるいはあえて逆らって進めたりすることにも楽しさを感じる。いずれにしても、これからはくだらないことは考えず、とにかく自分の思うままに進めてみようとおもう)




そして、
これも最近きづいたことなのだけれど、
わたしは、詩の朗読や他人の退屈な話(失礼ですね)をきくときと、音楽作品(とくに独奏作品)をきくときは、どちらも同じ視点で聞いているようだ。これは、人の言葉が音符になってきこえてくるとか、音が言葉のようにきこえてくるとか、そういう意味ではない。
うまく説明できないが、詩の朗読をきくときも、ピアノ独奏曲をきくときも、おなじ、「つぎにどのような音(もしくは声音)が続くのだろうか」ということ一点に意識が向いている。


結局のところわたしは、「音楽作品(やその中の音)を耳で聴くこととはどういうことなのか」 ―これは当然といえば当然のことなのだけれど―に興味があるのだと思う。そして、その問いによってさらに生じる、「音楽とそれ以外との潮目はなにか」ということにも目がいくのだと思う。


…というのが、
ここ1週間、創作について思い悩み続けて作曲ができなかった代わりに導き出した今の自分のひとつの指標である。と、思う。