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『オクトーバーフール』第2話

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(※目安 約3,600字)


 第2話


まるさん、すみません、戻りました」
「おお、千秋ちあきちゃんおかえり。大変だったね、小春こはるから連絡をもらったときはびっくりしたよ」
 千秋が店の扉を開けると、調理場にいた「丸さん」がカウンター越しに答えて出迎えてくれた。
 小料理屋『きまま』の個人経営者であり店主の丸花創志朗まるはな そうじろう。『きまま』で働く従業員からも常連のお客からも、親しみを込めて「丸さん」と呼ばれている。常につむっているかのようなほそ目はデフォルトで、笑うと目尻のしわがさらにくしゃっとなる。千秋は丸花の白目を見たことがない。
「よお、千秋ちゃん。オレオレ詐欺撃退したんだって?」
 常連の三枝治彦みえ はるひこがカウンター席で出来上がっていた。
「三枝さん、またこんな早くからそんなに瓶ビール空けて……」
「俺もよお~! こないだ夜中に騒いでいたチンピラどもを撃退したんだよ。若い頃は熊と駆けっこして見事~! 勝負に勝ったあッハッハッハ」
「三枝さん、それ追いかけられた側ですか」
「逃げ切ったんだから俺の勝だろおっ!」
「たしかに、無事で何よりです」
 三枝は何かと見栄を張りたがるが、それがちっとも上手くいっていないので憎めない。
「わたし着替えてくる」
 後から店に入ってきた小春が客間を通り過ぎ、階段を上がっていった。いつもなら三枝との会話に混ざってきそうなものだが、そうしなかった小春の様子に、やはり先ほど言いすぎてしまっただろうか、と思いながらも千秋は手を洗いエプロンを着る。
「小春も千秋ちゃんも来たし、私そろそろあがるわね。お座敷セットしておいたから」
 座敷卓のほうを指差しながら、丸花皐月まるはな さつきが千秋にウインクをしてみせる。皐月は小春の母親で、人手が足りないときにシフトに入ってくれている。
「ありがとうございます、すみません、予定より長く残っていただいて」
「いいのよ、それより鈴木くんにもお礼してね。彼、接客苦手なのに調理場から出てきていろいろやってくれたんだから」
 千秋が頷くと同時に、頭の後ろから三枝のへべれけな声が聞こえてくる。
「皐月ちゅわ~ん! あがったんなら一緒に飲もうよお~」
 この酔っ払いおやじ、と思わないでもないが、お客さまにそんなことは言えない。
「ふふっ。だめよ、三枝さん。パパがやきもち焼いちゃうからっ」
「パパ」というのは「丸さん」のことではなく、皐月の夫つまり小春の父のことだ。何の仕事をしているのか滅多に家には戻らないようで、千秋もまだ会ったことがなかった。
 それはそうとして、酔っ払い相手にさすがの皐月の対応である。寄り添いながらもきっぱりと断る。自分にはできない、と千秋は思ったが、一瞬考えてメモに控えることにした。
「いや、それメモすることですか。『手のひら転がし対応』って」
 鈴木だ。『きまま』唯一の高校生アルバイトの男子だ。
「ちょっと。人のメモを横から覗き見るのはどうかと思うわよ」
 千秋はメモ帳を胸に当てて隠した。
「それにしても、千秋さんって意外と接客に対して勉強熱心ですよね。人に興味なさそうなのに」
「えっと。……悪口?」
「いいえ、悪口ではありません。思ったことを言ったまでです」
 ——フォローになってないんだけど? いや、フォローする気なんてないのか、この子は。
「逆に鈴木くんは、もっと接客に対して勉強熱心になってもいいと思うけど」
「…………」
 反応がないため、千秋が不思議に思って鈴木のほうへ目をやると、鈴木は眼鏡のレンズを曇らせ、体を小刻みに震わせていた。
 まずい、と思ったが時すでに遅しだ。
「ぼぼぼぼーくだってできることなら人ともっと気軽にコミュニケーション取っておはようございます今日もいい天気ですね以外のアイスブレイクを交わし楽しく笑い合ったりジョークを言ったりしたいがやっと取れたと思ったフレンズとのレクリエーションのアポイントメントもリスケになり僕のアジェンダはエブリタイムブランクペーパー! メンターのいないコミュニケーションというフィールドではマストなメソッドも知り得ないまま——」
 両手で頭を抱え、こうべを垂れたり天を仰いだりしながら、合っているのかわからないビジネス用語とカタカナ英語を織り交ぜぼやく鈴木を放置し、千秋は夜の宴会の仕込みを始めることにした。
「あ、また始まった? スズキのぼやき」
 と皐月が言う。
「はい。皐月さん、もう少し居てもらうことになりそうです」
 と千秋。そこへ小春が降りてきて、
「うわっ。鈴木くん、また……?」
「ごめん、あたしがスイッチ押しちゃったみたい」
 千秋が顔の前で右手を立てて謝る。
「まあいいわ、私も手伝うから宴会準備始めましょ」
 皐月が再度エプロンを着て言った。

「皐月さん、このスパークリングワインいつから冷蔵庫入れてます?」
 ドリンク用冷蔵庫の中のボトルを持ち上げ千秋が尋ねる。
「2時間前くらいかしら」
 常温で保存していたスパークリングワインは、飲む時間の3時間から4時間ほど前に冷蔵庫に入れておくと適温になる。
「じゃあ宴会には間に合いそうですね」
 千秋が答えると、カウンターのほうから三枝が声を掛けてきた。
「うお~い千秋ちゃあん! それ旨そうだなあ~。俺にも飲ませてよ
~」
「だめですよ、今日の予約宴会の乾杯ドリンクなんですから」
「え~余分にないのお?」
「余分に冷やしてあるから1本ならいいんじゃないかな」
 調理場で料理の仕込みをしていた丸花が千秋に言う。
「じゃあ15分くらい待ってください、氷で冷やしますから」
 千秋がシャンパンボトルを冷蔵庫から取り出し、ワインクーラーに氷と水を用意していると、三枝が待ちきれない様子でボトルに手を伸ばした。
「いいよぉ、冷えてなくてもぉ~。すぐに飲ませてくれよぉ~」
「あっ、ちょっと待ってください! わかりましたから! 十分に冷えてないスパークリングは開けるときに噴き出しやすいんですよ。あたしが開けるので貸してください」
「やだねっ! 千秋ちゃん、俺みたいな爺さんはこんな洒落たもんの開け方はわからんだろって思ってるんだろう~! これでも俺は昔ソムリエの親友がいたんだあッハッハッハ!」
 自分じゃないんかい、と心の中でツッコミを入れる。
「三枝さん、今日はもう酔ってらっしゃるんだから——」
「おおおれは酔ってなあああああい!」
 この酔っ払いおやじ、と思ったが、お客さまにそんなことは言えない。
 とここで、先ほど学んだ皐月のあの技を使うときではないかと千秋は思った。その名も『手のひら転がし対応』。
 少し恥ずかしいけれども——
「ふふっ。もうっ三枝さんったら。三枝さんのために、あたしが開けたいんですよう。ねっ、お願い」
 振りしぼった、振りしぼったぞ。どうだ三枝——!
「……いや、いいです。俺、千秋ちゃんはドライな感じがいいと思うよ。なんか今ので酔い醒めてきちゃった」
 と三枝。
「さようでございますか……!」
 恥ずかしさなのか怒りなのかわからない感情が込み上げてくる。
「もう、とにかく貸してください」
「いやっ俺が開けるっ!」
 次の瞬間、ポンッと派手な音を鳴らしてコルクが飛んだかと思うと、同時に、噴き出したスパークリングワインの雨を千秋は頭から浴びた。
「「…………」」
 ——こんっっっの、酔っ払いおやじ!!!
「ち、千秋ちゃん、ごめんね。千秋ちゃんはドライな感じがいいと思うよ、だから早く乾かしてきたほうが…………ドライだけに」
「三枝さん!」
 皐月がキッと三枝を制止する。
「千秋さん、これ使ってください」
 小春がすかさずタオルを持ってきてくれたが、さすがに全身ベタベタである。
「千秋ちゃん、上でシャワー浴びておいで。その状態じゃ働けないだろう」
 丸花の提案に甘え、千秋はシャワーを借りることにした。

『きまま』は一軒家の1階部分が店舗スペースになっていて、2階は丸花家の住居スペースとなっている。小春に浴室を案内してもらい、シャンプーやドライヤーの場所を聞いた。
「バスタオルと着替え、これ使ってください」
「ありがとう。ごめんね」
「なんで千秋さんが謝るんですかっ」
「……なんとなく」
「ふふっ。なんですかそれっ」
 ごゆっくりどうぞ、と小春が脱衣所を出て行く。
 しかし千秋は内心焦っていた。とてもではないがゆっくりしている暇はなかった。
 ——時間掛かるな、これ。

 セミロングの髪を丁寧にすすいだあと、カラスの行水のごとくシャワーを浴びた千秋は、裸のまま脱衣所で対処法を考えていた。
 着替えのズボンとシャツは小春が貸してくれたのだが、下着までびしょ濡れだったのだ。コンビニに買いに行くにしても、下着を付けずに外に出るわけにはいかない。
 悩んだ挙句、千秋は濡れた下着をドライヤーで乾かすことにした。
 ——早くしないと、今の状態を誰かに見られたら一巻の終わりだ。
 と、その時。

「千秋さーん! 下着買ってきたので良かったら——」 

 ——ちょっ……! 待っ……!





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※この物語はフィクションです。登場する人物、団体、名称、事件等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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