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感情的な批判になっていないか

※注意:五輪を批判するのも1つの意見と理解しております。この記事は、その考えを真っ向から否定する訳ではありません。

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はじめに

日々ニュースが耳に入ってきますが、直近うんざりだなと思ってしまうのが東京五輪開催に関しての「感情的な批判」のニュース。

例えば、表彰式の衣装に関して「ダサい」「浴衣に変更しろ」等の批判です
(参考:下記画像の衣装になります)

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この話題は、私が普段使うSNSがTwitterという事もあるからなのか、直近1週間くらいは頻繁に目にしています。

これに関連した話題がTLで流れて来て、それに対するリプライがまたTLに流れてきてと、途切れないのです。

開催まで残り1ヵ月程の期間なのに、タグ付けしてまで『ダサい』『変えろ』と抗議運動をしている人までいる始末です。


私は普段Twitter上で大喜利をしているのですが、大喜利をされている方でも、この話題に乗っかって「ダサいよね~」と同調を求めてくるフォロワーさんも見かけたりします😅

大喜利って、言葉で相手に「笑い」の感情を想起させる結構ナイーブなものだと思っていて、そういう事を普段している方が、感情論に乗っかっているのを見ると、意見は尊重しつつも「ちょっと残念だな」と思ってしまうのです。

思ってるだけと、意見を発信してしまうのは違うのではないかなと想像力を働かせて欲しかったなと1人思ってしまったのでした。


衣装がダサいとか、他国の服装に似ていないかとか、浴衣に変えろとか…勿論、意見を言うのも発信するのも賛同するの自由です。

ただ、「コントロールできる事」「コントロールできない事」と分けた際に、1ヶ月くらいしか時間が残っていない中で、優先して議論して更にお金と人手をかける所がソコですか?と思ってしまうのです。

また、「反対」の理由付けをする時に、『世界からも批判がある』という論法は、いささかズルいと思ってしまうのです。

というのも、「賛成」も「中間」も、探せば世界で賛同者は見つかる訳で、『世界』が何処を指すのか、著名なメディアやジャーナリストが声を上げれば必ず正論なのか?それこそ『同調圧力』ではないのか?

誰か著名の方が言ったからと、飛びついて諸手を挙げて賛同するのではなく、自分の軸で判断し意見を主張して欲しいなと考えてしまうのです。


これに端を発してではありますが、オリンピック開催に関して自体の是非をこのタイミングで揉めている事自体について、持論を述べたいと思います。


文化人・知識人からの批判をどう捉えるか

五輪関係の一連の批判をあくまで「感情的」と私が捉えてしまうのは、批判の前提が「オリンピックは公平・誠実である」という幻想に縛られているように思えてならないからです。

有名な方で云えば、つい先日に宮本亜門さんがオリンピック憲章を持ち出してまで、東京五輪開催について批判をされました。

東京五輪は、オリンピック憲章に反して差別的であると。

ただここで違和感があるのは、宮本さんを始めとした知識人・文化人の方々が、例えばリオやソルトレイクの五輪招致でのロビー活動や、欧米人が有利になるようにスキーや水泳競技のルール改正が行われたりといった歴史を知らない訳が無いという事です。

他にも、視聴率やスポンサーの収益の為に、選考の大会数を増やしたり、階級を細かくしたり、フライング2回でさっさと失格にしたり、滑走した直後の場所でインタビューが行われて次の人が滑れないとか、マスコミやスポンサーが考える魅せ方に合わせて競技が「アスリートファースト」とかけ離れた変化を強要される事はゴロゴロある訳です。

更に言えば、ルールを作る・改正する欧米側と、それに従うアジア他の諸国側での格差は長年ずっとある訳です。日本の「お家芸」と言われた柔道ですらも、今やフランス他のものになろうとしています…

つまり、今まで開催されたオリンピックでも国際大会でも、各国で利権や権力闘争があったにも関わらず、あたかも「東京五輪」だけが不正にまみれていて、その事実を世界に積極的に発信している事に違和感があるのでした。今までのオリンピックにも同様の批判をしているなら筋が通りますし、「人権」を持ち出しての批判であれば、来年の中国でのオリンピック(こちらはウイグル自治区の人権問題もある国ですよね)にも批判されるのであれば筋が通るのですが、来年も同様に一貫して批判されるのかどうか、注視する必要があると思います…

また、スポーツも「産業」であり、他の競技者・国との「競争」である訳で、「お金」とは無縁で正々堂々・公平な世界かの様な「ある種の神格化」に対して、非常に強い違和感を持ちます。

閉会後にも新聞や番組などで「『感動』をありがとう」と打ち出して収益を得る為には、それまで「お金」を連想させないようにクリーンなイメージを保つ必要があるのかもしれません。ですが、この「スポーツ」と「お金」が切り離された感覚は、冷静に考えて「そろそろ止めるべき」だと思います。


「スポーツ」と「お金」を切り離す必要は無いのではないか?

ニュアンスはちょっと違うかもしれませんが、ここで武井壮さんのTwitterでの呟きを3つ紹介させて下さい。

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武井壮さんは、十種競技で優勝する程の実力者でありながら、マイナー競技の為に稼げず/食えずで芸能人へ転向して著名になられた経歴があるだけに、「スポーツ」と「金」に関係した発言には、かなり切実で説得力があると思っています。

上記3つの呟きをどう解釈するかは読み手に委ねられますが、今回の東京オリンピックも下記のスポンサーが関わっている以上、「彼らへ配慮された上で開催され、その中でアスリートが切磋琢磨するしかない」と、競技者でもない我々は一定の割り切りが必要なのではないでしょうか。

(参考:東京オリンピックHPより、公式スポンサー 一覧です)

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おわりに

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心理学の中で『正常性バイアス』という言葉があります。

よく例で挙げられるのが災害での振る舞いです。

例えば警報が鳴ったとしても「そんな大それた事は起こらないだろう」「大げさだな」と軽率に判断し、また起こっても自分だけは助かるだろう、と何となく思ってしまう心理を指します。

これは災害情報だけでなく、日々触れているニュース情報でも当てはまると思っています。

つまり、マスコミの情報が限定的であったり、自分が所属する集団・組織、普段触れているソースが偏っている可能性も疑う必要があるのではないか、という事です。

自分が少数派の意見で、積極的に更に少数派の意見を参照し続ける事で視野が狭くなっていないか、その情報を流している裏で誰か得していないだろうか?そういう視点も必要なのではと考える必要があるのではないでしょうか。

それをせずに、「自分たちだけが物事を知っている」⇒「だから正しい」「こうするべきだ」と主張して、人々を更に混乱させる騒動にする事は、決して賢い選択ではない/矛盾した活動なのでは?と思ってしまいます。

※ 効率や賢さで測る物事では無いのかもしれませんが。

(対策)
自分なりの対策としては、あるテーマについて図書館で「概要」「賛成」「反対」についての本を同時並行で読み進めてしまう事で、自分なりの軸を固める事をしています。片方だけの本を読んでしまうと、それに対しての賛同か反発の考えしか生まれないと思っているからです。


ちなみに冒頭に出した「五輪表彰式の衣装」に関する賛否両論ですが、

私の些細な対策として、先日ついに『五輪』『浴衣』を「ミュートする言葉」に追加した次第です。※落ち着いたら元に戻しますが…

全ての物事/世の中の関心事を全て無視する訳では勿論ないのですが、ある事柄に関して「賛成」でも「反対」でもなく、「目にしたくない」という判断があっても良いのではと思いました。

これを「無関心」と批判する方が居るかもしれませんが、取り敢えず置いといておこうとか、これは他の方に任せておこうとかしないと、それこそ「分断」になってしまうと思うんですよね。

ニュースを開かなくても、TLで流れてきて目にしてしまう事に関しては、こういう防衛策をするしかないのかなと思っています…


意見を言う事も発信する事も素晴らしい事ですし、ブランド力をつける為にある種のキャラ付けをして過激な物言いをする必要もあるのかもしれません。

しかし、意見を発信するからには、影響度合いや歴史背景、対立構造を掴んだ上で配慮した物言いも必要ではないかなと思った出来事でした。



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