【雑記】褒め上手になりたい。
僕は2014年ごろから、各種SNSを利用して文章を書くという趣味を始めた。理由は、コンテンツに触れたときのフレッシュな感想を残したり、自分の意見や主張を文章という形で発信したりするためだ。
主に読んだ本の感想を「読書メーター」、映画の感想を「KINENOTE」、アニメの感想を「Annict」、それ以外の日記や自分語りなどをここnoteに書いている。
10年近く執筆という趣味を続けていると、さすがに「自分は普通の人よりちょっと文章が書ける」という自覚と自信が生まれる。しかし、そんな自分にも、文章を書く上で明確に苦手に思っていることがある。
それは、何かを/誰かを褒めることだ。僕は褒めるのが苦手だ。
インターネットの発達により、ネットに繋がる誰もが表現者になれると言っても過言ではない現代。SNSでアニメやゲーム、映画の作品名で検索してみると、感想やレビューは山のようにヒットする。
僕もアニメや映画を見たあと、「自分以外の人がこの作品をどう思っているのかが知りたい」「考察オタクのすごい考察が見たい」などの理由でSNSで感想を探し回るのだが、その度に思うことがある。
みんな、なにかを褒めるの上手すぎんか?
X(旧twitter)を筆頭としたSNSに感想をアップしている人たち、み~んな褒めるのがうまい。
褒めるべきポイントはバシッと褒めて持ち上げ、欠点に関しても悪しざまに言わずに、指摘しつつも「このような理想/意図があったのだろう」などと制作サイドの事情を慮る。
語彙も豊富で「その作品をどのように素晴らしく感じたか」がビシバシ伝わってくるし、様々な視点から、興味深い考察を平然とやってのける。
当然知識も豊富で、そうした知識をベースに作品をより深く読み解いていく。
一部の識者の「今のSNS上における作品批評は、『いかにキテレツに作品を褒めてバズれるか』を競う大喜利と化している」という指摘にハマってしまっている部分もあるものの、上記のようなハイレベルな感想が、今のSNSにはひしめいている。
例えば、(彼はSNSの住人ではないが)TBSのラジオ番組『アフター6ジャンクション』のMCを務め、番組内コーナーで毎週映画を批評している、ラッパーの宇多丸氏。
彼の批評は上記したような「素晴らしい批評」の手本のようであり、レビューする映画に強い興味を持たせてくれる。今年の映画で言えば『エブリシング・エヴリウェア・オール・アット・ワンス』は、この人の批評がなければ僕は見に行っていなかった。
解釈違いでモヤっとすることもあるものの、僕はレビュアーとして彼を尊敬している。
SNSの住人で言えば、noteの「ツナ缶食べたい」氏や、個人ブログでゲームのレビューを行っている「ラー油」氏や「エクサ」氏も素晴らしいレビュアーであると思っている。
こうした素晴らしい感想・レビューを見る度に、僕は自分の生み出した文章の皮相浅薄ぶりがイヤになる。上記したような素晴らしいレビューが生まれている間に、自分は何をしただろうか?
乏しい語彙と薄い知識をこねくり回して自分がしたことと言えば、初動の成績がよろしくないスマホゲームの悪いところを挙げてみたり、
つまんないアニメが何故つまらなかったかを延々書いてみたりと、
上記したような感想群とは真逆の、作品をサゲる行為ばかりをやっている。
これら自作の文章には「よくできた」という自信を持ってはいるが、どうしても作品を讃え、さらなる魅力を見つけようとしている素晴らしい感想の前には、劣等感を覚えてしまう。
◆では実際に自分の「褒め」を再確認してみよう
ここで、自分のヘタクソな「褒め」を再確認してみる。
なんと稚拙で浅いことか。小学生の読書感想文かな?
「月並みだが」とか予防線を張っているところも最高にダサい。
反対に、何かをサゲている時の自分はノリにノッている。
この表現力が少しでもプラスの方向に向けられればと思わずにはいられない。
◆「鋭い批判こそ真の批評」という風潮があった
思い返せば、2014年以前から僕が上記したような、指摘にばかり意識が向く批評家になる下地はあった。
恥ずかしい話だが、15年ほど前、僕は令和の今でもファンから愛されているオタク向けのあるアニメ作品のアンチスレッドに常駐し、その作品をコキおろしていた。屁理屈で理論武装してはいたが、今思えば下らない理由でその作品を嫌っていた。
その時、自分のアンチ活動の原動力になっていたのは、同じくスレッドに常駐していたスレ民のある言葉だった。
「◯◯(作品名)の信者は、作品やクリエイターを盲信していて作品の悪いところを見ない。だが俺たちは違う。公平な視点で作品をジャッジして、悪いところは悪いとちゃんと指摘する。目の曇った信者が言えない指摘をする俺たちこそ、◯◯の真のファンだ。」
今にして思えば「お前は何を言っているんだ」と言いたくなるメチャクチャな理論だが、当時の僕はこの言葉に感銘を受け、「作品を盲信しない真のファン」を気取ってアンチスレに書き込んでいた。
アンチスレに限らず、程度の差はあったが当時のネットにはこうした「鋭い批判こそ真の批評」とでも言うべき風潮があったように思う。個人サイト・ブログを拠点に活動するレビュアーも、作品の欠点を指摘するような論調の人が多かったし、当時の僕もそうしたレビューサイトを信頼していた。
僕のそうした「真のファン」活動は1~2年ほど続いたが、最終的に僕は虚しくなってアンチ活動をやめた。いくら閉鎖された掲示板で「真のファン」活動を続けたところで世界が1ミリも動かないことに気づいてしまったし、怒りを抱き続けることに疲れてしまった。
それに、同時期にネット上での批評活動の風潮も変わった。上記したような作品をアゲる感想・批評がネットの主流となり、僕も今までとは逆にそれに憧れるようになった。
だが、アンチ活動で築かれてしまった書き手としての性根が一朝一夕で変わるはずもなく、僕は令和の今に至るまで、指摘や批判にばかり意識と語彙が向く悪癖が抜けないでいる。
もちろん、文章を書こうとキーボードを前にした時は「いいところを探そう、褒めよう」という意識で書き始めるのだが、どうしても前記したような小学生並みの褒め方しか出来ず、殆どの場合は最終的に何も改善案が思いつかずに諦めて文章を投稿してしまう。
◆どうすりゃいいんだ
このままじゃダメだと思い、知人からおすすめされた批評のハウツー本も読んだ。
この「批評の教室」はマジで素晴らしい本なので、文章を趣味にしている人・しようとしている人は一度手に取ることをおすすめする。
「批評の教室」は感想・レビューを書く上でとてもタメにはなったが、それでも現在に至るまでこの悪癖に根本的な改善は見られない。かなしい。
方方に迷惑をかけるので絶対にできないが、できるなら、X(旧twitter)などにすばらしい感想・考察・レビューを書いている人たちに
「すいません、どうやったらそんなに上手に褒められるんですか?そんな語彙や知識をどこで手に入れたんですか?煎じて飲むんで爪の垢ちょっと分けてくれませんか?」
と聞いて回りたいくらい、この悪癖は改善したいのだが、どうすれば改善できるのか、皆目見当もつかないのが自分の現状である。
本当にどうすりゃいいんだ。
(同じような悩みを持つ方、「こうしたら褒めるのうまくなったよ」という経験談がある方、コメントお待ちしております)
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