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令和の虚無アニメ、『魔法少女マジカルデストロイヤーズ』を語る

水星の魔女シーズン2。推しの子。ウマ娘RTTT。
鬼滅の刃・刀鍛冶の里編。アクロス・ザ・スパイダーバース。

これらのアニメが各種SNSのタイムラインの話題をかっさらう中、その裏でひっそりと、あるアニメが最終回を迎えた。
その名は『魔法少女マジカルデストロイヤーズ』(以下『マジデス』と略記)。

僕は昔からいわゆる「マイオナ」な気質であり、アニメ鑑賞を趣味としてから現在まで、タイムラインの皆が流行を追いかける裏で話題にならないようなアニメを見て、そして「素直に流行ってるやつ見ておけばよかったな…」と後悔することを繰り返している。
そんなひねくれたアニメ鑑賞の仕方をしているとダメなアニメに当たることも多く、そうすると必然的に「ダメアニメに対する耐性」がつき、多少のダメなアニメは笑い飛ばせるようになる。
だが、2023年春。そんなダメアニメを数多く見てきた自分でも笑って流せない、いいところを探すのが困難なアニメが現れた。
それが『マジデス』である。

このnoteでは、マジデスという作品の不出来さを一人でも多くの人に共有すべく、自分がマジデスという作品におぼえた感想…というか「虚しさ」を記していく。
マジデス全12話を見終えた後の「こんなことならマイオナしないで別のアニメを見とくんだった」という本気の後悔が、少しでも伝われば筆者としては幸いである。

◆発想が20年遅い

マジデスは、原作者である日本のイラストレーター・JUN INAGAWAが2023年のアニメ化以前から温めていた物語で(2019年のインタビューで「約3年前から温めていた」という旨のことを言っているため、少なくとも2016年以前から)、
あらゆるオタク文化が謎の組織「SSC」によって排除された2011年の日本を舞台に、SSCに反旗を翻す「革命軍」と、革命軍を率いるリーダー「オタクヒーロー」、そして革命軍の切り札である、超常の力を持つ3人の「魔法少女」たちの戦いを描く。
革命軍は「好きなものを好きなだけ好きと言える世界」というスローガンを掲げ、SSCに支配される以前の世界を取り戻そうと戦っている。
要するに本作は、革命軍の戦いを通じて現実世界のオタクたちにも「自分の(オタク)趣味を恥ずかしがることはない。好きなものを好きなだけ好きと発信しよう」というメッセージを伝える作品となっている。

だが、原作者のJUN INAGAWAには悪いが、この「好きなものを好きなだけ好きと言える世界」というメッセージは、すでに時代遅れのものになっている。

確かにオタクは、かつて好奇の目に晒され、差別され、いじめられてきた。だが令和の現在、いわゆる「オタクの暗黒期」はすでに過去のものとなっている。
子どもたちが堂々と『呪術廻戦』や『鬼滅の刃』、『チェンソーマン』『ラブライブシリーズ』などの深夜アニメを話題にし、全然オタクっぽくない芸能人やアイドルが堂々と「私はあの作品が好きなんです!」「あの声優のファンです!」と宣言し、それがファンにも受け入れられ、17時台のニュースでは堂々と「推し活」が特集され、日本発のアニメソングがアメリカのビルボードチャートに食い込み、バーチャルyoutuberのチャンネルが300万だの400万だの異次元の登録者数を獲得する世の中で、今更「オタク趣味を恥ずかしがるな!堂々と好きと言おう!」というメッセージを発信されても、微塵も心に響いてこない。

もちろん、嘆かわしいことに令和の現在にもオタク文化を排斥しようとする者たちはいる。

どこの誰とは言わない

だが、そういった人々はすでに少数派となっており、彼らは非論理的な言い分もあって、ゼロ年代とは逆に嘲笑の対象にすらなっている。

言っておくと、マジデス作中の年代は2011年なのでオタクが差別されていてもおかしくはない。令和の世に2010年代のオタク差別の物語を発信する必要性が果たしてあるのか、という話だ。
この時代遅れな「オタク賛美」的なメッセージを秘めた作風は、あの迷作『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のそれに近い。

ひとつわからないのが、JUN氏も年月の経過で「オタクカルチャーが市井に受け入れられつつある」ことをはっきりと認識していることだ。

そこからさらに時間が経って、いまのオタク界隈はめちゃくちゃ面白くなってると思うんですよ。アニメもゲームもポップカルチャーになって、ほとんどの人が普通に見るようになった。しかも『チェンソーマン』が社会現象化して、まさか藤本タツキ先生の世界がこんなに受ける時代が来るとは思ってもいませんでした。『ファイアパンチ』を読んだときに「最高! 俺たちみたいな人に寄り添ってくれてる!」と思っていた頃が遠い昔のようですね。

TOKYO ART BEAT「JUN INAGAWAインタビュー 過去の自分を肯定した、無限の思考の広がり。DIESEL ART GALLERY「BORN IN THE MADNESS」」より引用(https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/jun-inagawa-interview-202212)

企画は2018年から進んでいたらしいが、放映までの5年でどうにか路線変更はできなかったのだろうか。

だが、ここまでの「テーマやメッセージが古い」という話は、作品の直接的な評価に関わるものではなく、あくまで「好き嫌い」の段階の話である。
テーマやメッセージが古くとも、綿密なリサーチをもとに「2010年代の、未だ差別の渦中にあるオタク」がしっかり描けていればドキュメンタリー的な面白さが生まれただろうし、作品のクオリティが高ければ「言っていることはちょっと時代遅れだけど、エネルギーは凄まじい怪作」としてオタクの記憶に残ったかもしれない。

だが、悲しいことにマジデスは純粋につまらない。
マジデスの監督、博史池畠には『キラッとプリ☆チャン』『トニカクカワイイ』などの実績があり、シリーズ構成の谷村大四郎も『SPY×FAMILY』などの名作に脚本として関わっている。
この座組から致命的につまらない作品が生まれてくるとは思えないのだが、悲しいことにマジデスは純粋につまらない(2回目)。

◆作画が良くない

ゼロ年代アニメへの強いオマージュを感じさせるOPと、コメディな本編と真反対の、どこか革命軍たちの破滅を暗示しているかのような映像が流れるEDは作画の質も良く、中毒性のあるOPテーマ「MAGICAL DESTROYER」とEDテーマ「Gospelion in a classic love」も相まってこれから始まる物語への期待を感じさせる。

だが、期待の本編は、令和のクオリティとは思えない作画の汚さで全編進んでいく。

ひどいのが魔法少女モノの華と言えるバトルシーンで、特にメインヒロインであるアナーキーは派手な魔法で敵をバシバシやっつけていくのだが、作画がだるいせいで全くかっこよく見えない。
これは作画と言うより演出の問題でもあるのだが、サブヒロインのピンクとブルーも魔法少女っぽい派手な技を使わず、もっぱら白兵戦で戦うので、「魔法少女の人智を超えた強さ」をいまいち表現できていない。

◆そのパロディに愛はあるのか

序盤〜中盤にかけてはコメディ調を基本にSSCの刺客たちと魔法少女の戦いが繰り広げられるのだが、これがとにかくつまらない。
基本的に笑いの取り方はパロディ頼りで、例えば3話のSSC幹部「@号」との戦いでは、@号の乗り込むロボットは『進撃の巨人』か『エヴァンゲリオン』、そのロボットの発進シーンは『ガンプラ』と、各種ロボットアニメの発進シーンのミックスであるなど、多くの作品をパロディしている。

パロディという手法そのものはどんな作品でもやっていることで別にいいのだが、本作は雑にパロディを繰り返してばかりで、だんだん制作サイドの「君ら、こういうパロディ好きでしょwww」というドヤ顔が透けて見えてきて、しらけてしまう。
同じくパロディが作風の一つで、パロディ元の再現度の高さと巧みなアレンジで笑いを取った『ポプテピピック』や、1クール通して任侠映画への愛あふれるオマージュを見せた『アキバ冥途戦争』と比べて、パロディを「適当に持ってきているだけ」感が強く、愛を感じない。

◆何もかもが薄っぺらい

パロディを抜きにしても、序盤〜中盤はひたすらにつまらない。
その最たるものが4話で、簡単に説明すれば「オタクヒーローたち革命軍と思想を違え対立する旧時代のオタク集団『万世橋オタクコミューン』の戦い」という内容で、旧時代のオタクたちは「SSCがオタクを迫害したのは、お前たち新世代のオタクがオタク趣味をあけっぴろげにしたからだ!オタクはもっと慎ましやかに生きるべきだ!」と主張して革命軍と対立するのだが、SSCは非オタクを洗脳して「オタク文化は悪」という思想を植え付け、オタクを迫害したのであり、旧時代オタクの言い分はただの老人の妄言に過ぎない。
それに対してオタクヒーローも「オタク文化も好きなものを好きと言える時代に変わったんだ!」とどこかずれた反論をするばかりで、「旧世代オタクvs次世代オタク」の構図がうまく成立していない。

しかも、万世橋オタクコミューンと革命軍は穏便に「水泳大会」で勝敗を決することになるのだが(これも「ドキッ!女だらけの水泳大会」のパロディ)、その際に万世橋オタクコミューンの中年オタクたちは幼い息子・娘を選手として連れてきて、なぜか息子に女性用の水着を着せて選手として送り出す。
「男の娘」「女装男子」ネタで笑いを取ろうとしているのはわかるのだが、「これって児童虐待なのでは?」という思いが先行してしまい、全く笑えなかった。

◆オタク優生思想

中盤以降はパロディの数が一気に減り、パロディに頼らず、いびつな兄妹愛でつながったSSC幹部「ひまわり兄妹」との激闘を描いた9話など、そこそこ面白い話も出てくる。
だが、ここも手放しで褒められないところがある。それが9話で描かれる「なぜオタクヒーローたちオタクは、SSCの洗脳を逃れることができたのか?」という理由付けである。
革命軍たちは彼らなりの憶測に過ぎないが、「俺たちは一般人にない、特定のジャンルに対する強い『好き』の感情を持っていた。だからSSCの洗脳を逃れられたんだ」という結論に達する。
彼らは「非オタクの一般人は全員無趣味な人たち」とでも思っているのだろうか?
当然だが、オタクを名乗らない非オタクの人にも、趣味が、強い『好き』の感情がある。彼らの持つ『好き』はオタクのそれより劣ったものとでも言いたいのだろうか?
この言葉は、かつて差別されていた時代のオタクたちの一部(自分も含む)が、いじめられた反動で心の中に生み出した「俺たちのオタク趣味は、お前らの凡庸な趣味とは違う高尚なものなんだ」という、「オタク優生思想」とでも言うべき歪んだ防衛機制を思い出させる。
そんなところで「旧時代のオタク」を忠実に再現しなくていいから…。

しかも、この革命軍の言葉は原作者のJUN氏の語ったオタクの定義に反している。

――ストリートと交流を持ち、いわゆる秋葉原を中心とする“オタクカルチャー”も押し出しながらファッションシーンで活躍しているというのはかなりまれなことだと思います。JUNさんが考える“オタク”について教えてもらえますか?
JUN:オレが考えるオタクって、カテゴリーではなくてライフスタイルなんですよね。夢中になれるくらい好きなものがあれば誰でもオタクだって思っています。

TOKION「オタクとは何か――21歳のアーティストJUN INAGAWAの姿勢」より引用
(https://tokion.jp/2020/12/25/defining-otaku-with-jun-inagawa/)

監督・シリ構の両名には、原案をリスペクトする心がなかったのだろうか。

◆オタクの負の面を描くと言ったな、あれは嘘だ

終盤になると、本作のラスボスであるSSCのリーダー、ショボンのキャラクターが掘り下げられる。

名前通り、ショボーンのAA

彼はゲームクリエイター、かつオタクヒーローたちと同じオタクであったが、作ったゲームがオタクたちに袋叩きにされたことでオタクを恨むようになった。
その時、彼は超常の力を持った謎の女性「オリジン」と出会い、「最高のシナリオを見せてもらう」ことを条件に異能の力を与えられ、オタクへの恨みを原動力に、オリジンを楽しませるための「オタクが迫害されている」という設定の異世界を作り出した、というのがマジデスの物語の真実である。

この設定を聞いた時、自分の中に興味が生まれた。ひたすらにオタクを賛美してきたこの作品が、初めて「オタクの負の側面」を描いたからだ。
オタク(というかネットの住人)は、クソゲー、クソ映画、バカッターなど、世間的に「叩いてもよい」と見做されている存在は結構容赦なく叩いてしまう、という傾向がある(こういう側面は自分にもあるので、自戒せねばならない)。
オタクの善性を信じるオタクヒーローと、上記したようなオタクのダークサイドが原因で生まれたヴィランであるショボンはいい対称になっていて、最終回において今までのつまらなさを払拭するようなドラマが生まれるかも知れない、と僕は少しだけ期待した。

その期待は、あっさりと裏切られた。
最終局面、ショボンの隠し持っていた3人の悪の魔法少女の力によって、革命軍の魔法少女3人は悪に反転、「マジカルデストロイヤー」と化してしまう。
(この時ショボンは「そう、これこそが『マジカルデストロイヤーズ』…」とさも上手なタイトル回収をしたかのようなドヤ台詞を吐くのだが、正直ショボンの言う魔法少女が悪堕ちした理屈は意味不明で、全然上手くタイトル回収できていない)
最大の味方を失ったオタクヒーローは、ショボンの作った世界を「こんな『嫌い』に満ちた世界は認めない」と否定し、悪堕ちした魔法少女たちに滅多打ちにされながらもショボンに向かっていく。
そのオタクヒーローの姿はちょっとかっこよかった…のだが、ショボンは「僕はこの世界の創造主だ、オタクヒーロー、お前に僕は倒せない!」と見下すばかりでオタクヒーローに今まで受けたオタクへの恨みを語ることをせず、オタクヒーローもショボンの気持ちを1ミリも汲むことなく、彼の作り出した世界を全否定するばかり。
そこに期待していたようなドラマはなく、「オタクの善性を信じるオタクヒーローと、オタクのダークサイドから生まれたショボン」という対称は1ミリも生かされることなく、オタクヒーローは悪堕ちした魔法少女たちの手であっさりと死に、革命軍は壊滅する。

そしてその数年後、さらなるオタク文化の徹底的撲滅を叫ぶショボンの前に、オタクヒーローの活動に感化され、彼の名を継いだ「2代目オタクヒーロー」が現れ、新たな革命軍とともに反SSCの戦いを再開。
「予想不可能な面白いシナリオ」を求めるオリジンは、このショボンの予想にない 2代目オタクヒーローの登場に歓喜する…というところで、最終回は終了する。
オリジンとは何だったのか?魔法少女とは何だったのか?
最も重要な謎は一切明かされないまま、物語は教科書に載せたいような「俺たちの戦いはこれからだ」エンドで完結した。

これを見た時、画面の前で僕は言葉を失った。そこにJUN氏が見せたかったであろう「オタクというライフスタイルの素晴らしさ」はなかった。
愛のないパロディ。薄っぺらいドラマ。独りよがりで時代遅れなオタク賛美。
JUN氏の掲げた根本のコンセプトさえ見失い、迷走した駄作がそこにあった。

◆総評

先述したような
「愛のないパロディ」「薄っぺらいドラマ」「独りよがりで時代遅れなオタク賛美」
の3つのワードでこのアニメはまとめることができる。

オタクが差別の渦中にあったゼロ年代ならオタクたちの共感を多少は得られたかもしれないが、今は令和5年である。生まれるのが10年、いや20年遅い。
革命軍が、オタクヒーローが謳い上げる「差別や偏見に負けるな!オタク趣味を堂々と好きと言おう!」という一方的なメッセージは時代遅れで、視聴者の心に響かないどころか、不愉快ですらあった。
そんなメッセージを掲げておきながら、最後のショボンとオタクヒーローとの決戦が低レベルな否定合戦に終止したことも、ショボンの口撃にも、魔法少女の裏切りという絶望にも屈しなかったオタクヒーローの姿にはかっこよさを感じただけに残念だった。

冒頭で述べたように、「ダメアニメに対する耐性」がつき、多少のダメなアニメは笑い飛ばせるようになった自分でさえ「違うアニメを見ておけばよかったな」と久々に後悔した迷作だった。

このnoteが、このアニメに少しでも興味を持った人への警句になれば幸いである。

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