夏目漱石 「行人」 書評
久しぶりの投稿になります。
夏目漱石の「行人」を読み終えたので、あらすじと感想を載せます。
どうしても、夏目漱石作品ばかり書評を載せてしまいますね。
どれも読み応えがありますし、読むのがとても楽しいです。
彼の作品は面白い作品というよりは、現代人の倫理上の問題や哲学の問題を読者に鋭く問いかける力があります。
「行人」は夏目漱石の後期三部作のうちの一つです。
『彼岸過迄』明治45(1912年)
『行人』大正元年(1912年)
『こころ』大正三年(1914年)
三年足らずの間に、これほどの作品を残す漱石の筆力には脱帽。
しかも、『行人』の執筆中に胃潰瘍で5ヶ月間中断したそうです。
この本は、ざっくりいうと、
理知に富んでいる兄(一郎)が抱く、人の心が理解できないことの絶望感や孤独感を、弟の二郎の目から描いた作品。
最後の60ページくらいはすべて、一郎の友人であるHが綴った手紙の内容となっており、これを見ると『こころ』にある「先生と遺書」と通ずるところがあるように感じます。
この作品は「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」という4つの編から成り立っており、順立ててあらすじを紹介します。
※ネタバレ
『行人』 あらすじ
友達
主人公の長野二郎は、両親、兄夫婦、妹のお重、女中のお貞とともに東京で、暮らしていた。
両親は、二郎とお重とお貞の縁談がなかなか決まらず、焦っていた。
そんな中、かつて書生として長野家に世話になっていた岡田が、お貞さんの縁談の相手を見つけたというので、二郎は大阪にいる岡田のもとへ派遣された。
二郎はついでに、友人の三沢とともに和歌山の高野山登りに行く計画を立て、岡田家を待ち合わせの場所として設定した。
岡田家に到着した二郎は、お貞の縁談相手の情報を聞き出したり、本人と実際に会食をしたりして、お貞の相手として特に問題ないという旨の便りを両親に出した。
すると何日かして、三沢が入院しているという知らせが入ったため、二郎は三沢のもとへ見舞いに行くと、彼は大阪に到着してから何人かの連れと飲みに出かけ、胃を壊したのだという。
二郎は、行くあてもないため、見舞いに行く日々を送っていると、三沢の病室の向かいに、美しい芸者風の女が入院してきて、二人はこの女に惹かれる。
その女は、三沢が大阪で一緒に飲んだ連中の一人であった。
三沢には、その女に酒を無理に飲まして入院に追い込んでしまった自覚があるため、一度は見舞いに行こうと考えており、三沢の退院直前になって、初めて女の病室を訪ねた。
女の見舞いを終え、三沢は病院を出る決意を固めた。
三沢にはこの女に拘る理由があった。
三沢家はかつて、父の知り合いの娘で、旦那のDVがもとで精神病にかかった女を、我が家に引き取った。
その娘は、三沢が外出する時に必ず、まるで夫に対するように、
「早く帰ってきてちょうだいね」
と声をかけていて、三沢はこれをあまりに不憫に感じた。
三沢はいつしかこの娘に惹かれるようになるが、娘は突然病気で死んでしまった。
その哀れな娘と、病院であった美しい女の顔がよく似ていたのだという。
退院後、三沢は東京行き電車に乗り、二人は梅田駅で別れた。
兄
その後、二郎は急遽、岡田の計らい(サプライズ)により、兄夫婦と母とともに大阪と、和歌の浦(和歌山県)に旅行に行くことになった。
学者の兄は普段から、書斎に籠りがちで、すぐにつむじを曲げる気難し屋のため、家族はほとほと手を焼いていた。
中でも妻(直)との仲は冷え切っており、妻の夫に対する態度は冷淡であった。
兄は
妻が自分をどう思っているのか?
弟の二郎と男女の関係を持っているのではないか?
などの疑念に日々苦しんでいた。
そこで、兄は二郎と二人きりになった機会を見計らって、嫁の心が理解できない苦しみを告白し、遂にはこの和歌山旅行中に、自分の嫁と一晩泊まって節操を試すように依頼する。
二郎は倫理上の問題だと拒否していたものの、兄の本気度に根負けし、兄嫁と和歌山の日帰り旅行で妥協することになった。
和歌山に行った二郎と兄嫁は、暴風雨に遭い、兄と母の宿に戻れなくなってしまったため、やむを得ず一晩泊まることになってしまった。
二郎は兄嫁に、兄と打ち解け合うようにと助言すると、
兄嫁も涙を流しながら、不仲の苦しみを訴える。
距離が近づくこともありながら、一線を越えずに何事もなく夜を越した二人は、晴れ渡った翌日に兄と母のいる和歌浦に戻る。
一郎は二郎に兄嫁の様子がどうであったか聞かれるが、
「解りません」 -中略-
「姉さんの人格に就て、御疑いになる所はまるでありません」
と述べる。
当然一郎は納得するはずもなく、詳しく問いただすが二郎は東京に戻ったらゆっくりと話すと茶を濁す。
帰ってから
東京へ帰った後、いく日か経っても、二郎は例の話を兄にせずに誤魔化していた。
ある日とうとう兄は、
「御前は父と同じ世渡り上手なだけで、軽薄だ、
いつまで経っても直(兄嫁)の報告をとぼけている」
と二郎を批判した。
二郎は言い訳を述べ、
「姉さんのために少しは善良な夫になってください」
と言い返すと兄は、
「馬鹿野郎!」
と激怒し、二郎を部屋から追い出す。
そこから、兄弟は一言も口を聞かなくなってしまった。
家に居づらくなった二郎はとうとう実家を出て一人暮らしを始めたが、兄の様子がどうしても気になってしまう。
すると、三沢から一郎の様子が最近おかしいことを伝えられ、二郎はますます不安が募っていく。
そんな中で、お貞の結婚式が無事に終わる。
「塵労」
兄のことが気がかりな二郎は、実家にちょくちょく尋ねて妹のお重に話を聞いてみると、兄が一家の中でさらに孤立し、神経衰弱にかかっていると気づく。
心配を募らせる二郎は、兄と懇意で同僚のHに、兄をどこか旅行に連れていって、何か変わった様子があったら便りでそれを知らせてほしいと依頼する。
これを引き受けたHは、兄を静岡巡りに連れていった。
旅行の11日目に、二郎の元に届いた便りは膨大な量で、そこには兄の苦悩の内容が克明に記されていた。
ーーーーーーーーーあらすじ終わりーーーーーーーーー
『行人』 感想
一郎の苦しみはものすごく深いと感じた。
頭が良くて、何事も考え抜く癖のある一郎は、おおよその事柄なら理屈で整理して、納得することは可能であったのかもしれないが、人の心だけはどう考え抜いても理解することができなかった。
さらに、一郎が持つ「あるべき人間像」が、非常に誠実で高尚であるため、他人がものすごく下劣に見えてしまう。
特に父が不誠実な人間として、小説では取り上げられている。
二十数年前、ある男に婚約を破棄され、今では盲目になってしまった子持ちの女が、その男を代表した父に、ずっと知りたかった婚約破棄の理由を聞いたが、父は誤魔化して返答した上に、自ら良いことをしたと勘違いしている。
一郎の目には、父も直も二郎も不誠実な人間としか映らず、信じたくても信じることができない。
そして、社会では一郎にとって下劣な人間が、誠実な人間を差し置いて、高い地位を誇っている有様なのである。
このように、一郎は理想と現実のはざまで苦しみ続けている。
したがって、一郎には、三沢が惚れた精神病の女や、お貞、Hなどが持つなんの打算もない純粋な気質が、何よりも神聖で気高く見えるのである。
どうすれば一郎は苦悩から抜け出すことができるのか?
たいていの人間は私も含めて、他人の心を研究せず、高尚な理想も作り上げず、日々に埋没することで、なんとか社会生活を営んでいるし、それ自体は間違いではないと思う。
読んでいて、一郎に対して「考えてもしょうがないことを考えてどうするの?」という感情が何度も湧いてきた。
まあ、一郎から見れば私はおそらく「軽薄」な人間なのだろう・・・
また、作中のHが一郎に対して提示した絶対的な存在である「神」を崇拝することで、自己本位の世界から抜け出すという考え方は、宗教の重要なテーマなのではと感じた。
自分と外界という二極の関係に、もう一つ絶対的な神を規定することで、理想と現実のギャップをうまく埋め合わせて、安心を得られると言うことだろうか?
要するにすべては神の思し召し、という考え方に頼る方法。
漱石の作品では、宗教に関する議論がちょくちょく見られるので、いつか整理してみたい。
それにしても、直の性格は確かにミステリアスで、強烈な印象である。
直は一郎から受けた仕打ちの復讐として、冷淡な態度を取り、一郎に気があるような素振りを見せたのだろうか?
それとも、何度も関係の修復に努めた直が最終的に辿り着いた妥協策が、冷淡な態度をとるということだろうか?
書斎に籠り、家庭をほとんど顧みることはなかった一郎にも非があるだろう。娘も一郎に対して、懐くどころか怯えている有様である。
直の例をとっても、漱石の描く女性は、言葉少なで、芯の強さを感じさせる。それでいて女性らしさも失わない。
『三四郎』の美禰子や、『それから』の三千代も同様に魅力的である。
漱石が明治の女性を鋭い視点で見ていたことがよくわかる。
つらつらと述べてきたが、とても読み応えがある作品なので、是非時間がある時に腰を据えて読んでいただきたいと思う。名作である。
ーーーーーーーー感想終わりーーーーーーーー
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