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夏目漱石 「門」 書評

夏目漱石の「門」を読みました。
こちらは、前期三部作のうちの最後の作品となります。
三四郎⏩それから⏩

「それから」は前にもあらすじと感想を書いたのでよかったら見てください。

物語の展開にそこまで起伏がなく、インパクトに欠ける感じはしましたが、「罪の意識」や「後ろ暗さ」みたいな心境がかなりリアルに描かれていて、引き込まれるところがいくつかありました。

あらすじと感想です。
※ネタバレ

あらすじ

役所勤めの野口宗助は、嫁の御米と二人きりで、東京の崖下にある閑静な借家で、ひっそりとつましい生活を送っていた。

彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。または最初から、色彩の薄い極きわめて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。

夫婦は、後ろ暗い過去に苦しみ続けていた。

御米はもともと、宗助の京都大学の学友であった安井という男と夫婦関係にあった。

しかし、宗助は安井から御米を略奪し結婚に至ったのある。

略奪婚の末、夫婦は親戚からも社会からも爪弾きにされ、京都、広島、福岡と住居を転々とするが、学生時代の友人で、当時、高級官司であった杉原という男のはからいで、東京の役所仕事を得て、そこに移り住んだのであった。

宗助は略奪婚後の広島での生活中に、東京にいる父が死んだことを知る。

東京に帰れない宗助は、父の遺産の整理と、10個ばかり歳下の小六という実弟の世話を、東京にいる叔父に頼んだ。

しかし、数年後宗助が東京に戻って来たのち、叔父は死ぬ。そこで、事業の失敗などで宗助が手にするはずの遺産が、すでに使い果たされたことが発覚した。

さらに叔母から、これ以上、小六の世話も学資の支援もできないと言い渡され、夫婦は小六を引き取り3人での生活が始まる。

ある日、近所に住む大家の坂井の家が空き巣に遭い、犯人が捨てて行った盗品を宗助が坂井に預けにいったことをきっかけに二人は懇意になる。

坂井は、社交的で財産もあり子沢山で、宗助と全く対照的であった。

年始に宗助は坂井の家に招かれ、坂井と雑談に興じていた。坂井から「小六を書生としてうちで世話しても良い」という思いがけない提案を受け、宗助は喜ぶ。

だが、蒙古にいる坂井の弟とともに、安井が近々坂井の家を訪ねることを知って、宗助は驚愕する。

裏切って以来、消息を絶っていた安井が近いうちに東京に来るということを知った宗助はなにも手がつかず、ついにはノイローゼ気味になってしまう。

苦しむ宗助は、救いを求め、役所の同僚の紹介で、禅寺へ参禅に行く。

宗助は老師から

「父母未生以前い本来の面目は何だか、それを一つ考えて見たら善かろう」

という公案を言い渡される。これは「自分は一体何者であるのか考えてみろ」という意味である。宗助は日々坐禅を組み、公案について考えていたが、一向に答えに辿り着かず、痺れを切らして、とうとう禅寺から去ってしまう。

10日ぶりに我が家に戻った宗助は、坂井の家に、坂井の弟と安井が尋ね、蒙古に帰って行ったことを知る。宗助はとうとう、坂井に安井との過去について何も述べなかった。

これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければすまないような虫の知らせがどこかにあった。それを繰り返させるのは天の事であった。それを逃げて回るのは宗助の事であった。

夫婦は普段の生活に戻り、御米は
「本当に有難いわね。漸くの事春になって」
と宗助に話しかけると、宗助は
「うん、しかし又じきに冬になるよ」と答えた。

ーーーーーあらすじ終わりーーーーー

感想

「それから」では、代助が美千代を平岡から奪い去り、親族から勘当され、仕事を探しに列車に乗り込んだところで、物語が終わっている。

本作品も略奪婚の末の、夫婦の行く末を描いているので、直接的なストーリーの繋がりはなくても、本作品は「それから」の続編と言えるだろう。

宗助も代助のように、高等学校に通っていたため、学があるはずだが、議論を好むこともなく、自らに降りかかる不条理にもまったく対抗せず、そのまま受け入れてしまう。

例えば、宗助は叔父に、親父の遺産をすっかり無駄にされた事実に対しても、特に取り乱すことなく、激怒するわけでもなかった。
また、叔父の存命中にも、遺産について問いただしても不思議はないのに、略奪婚の後ろめたさのせいか先延ばしを重ねてしまう。

それほどに、「罪の意識」「社会からの断絶」は一図で血気盛んだった宗助を変えてしまった。

逆に、一図で頑固であった性格ゆえに、自らの罪を背負い続けるとも言える。自らの罪を自覚せずに開き直って生きるほど、宗助は分別がないわけではなかったのだろう。

夫婦の無機質な暮らしが、楽天家の坂井や、満たされた生活をしている叔母などと対比されて、何度も描かれている。

読んでいて、社会から断絶された末はこうなるのかと少し恐ろしくなった。
現代でも田舎であったら、十分あり得る話ではないだろうか。

禅の道に救いを求めても、悟りにたどり着けなかった宗助は、そもそも自分には、救いも何もなく、ただこの灰色の生活を続けていくしかないということを悟ったのだと思う。

これは一見、悲劇的かつ絶望的な境地に見えるが、宗助が自らの暗い過去とこれからの運命を完全に受け入れたと、私は捉えた。

これからも夫婦で手を取り合って、なにに期待するわけでもなくひっそりと暮らしていくのである。これが不幸な運命というわけでもないだろう。

彼は平生自分の分別を便に生きて来た。その分別が今は彼に祟ったのを口惜思った。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立むべき運命をもって生れて来たものらしかった。

しかしよく考えてみると、夫婦は非人道的な罪を犯したわけではないし、近代の結婚制度のルールから逸脱したにすぎない。だが、社会はそれを許さないのである。

今も、芸能人の不倫の報道があると、なんの不利益も負っていない人々がネット上で誹謗中傷を繰り返している有様である。どこにそんなエネルギーがあるかといつも不思議に思ってしまう。

いつ断絶されるかわからない「社会」や「世間」に怯えて生きなければならないのは、今も昔も変わらない。このことが作品の主題かわからないが、こんなことを考えずにはいられなかった。

ーーーーー感想終わりーーーーー

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