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大江健三郎 「個人的な体験」 書評

2023年3月に大江健三郎氏が亡くなったのですが、彼の作品は読んだことがありませんでした。
そこで、買ったっきり読んでおらず、本棚に眠っていたこの作品を引っ張り出して読んだら面白くて読了したので、せっかくだからあらすじと感想を書き記すことにします。

この作品は昭和39年(1964年)に書かれた長編小説です。
大江健三郎が国際的に活躍するきっかけとなった「万延元年のフットボール」の少し前の作品です。

知的障害者である息子の光が誕生した実体験を元としており、大江の今後の作風を決定づける重要な作品です。

あらすじ

27歳の塾講師である主人公の鳥(バード)は、身籠った妻の出産を控えていたが、陰鬱な気分に見舞われていた。

家庭を築きあげるということは、バードの夢であったアフリカでの生活を不可能にしてしまうからである。それは非日常的な生活への憧れであった。

突然、バードのもとに病院から頭部に異常がある赤ん坊が生まれたと、連絡があり、病院に直行すると、そこには頭部が大きく変形した脳ヘルニアの赤ん坊がいた。

この赤ん坊は正常に育つ見込みがないと医者から告げられ、バードは呆然とする。

義母はバードに対して、娘に決してこの赤ん坊のことは、口にしないように告げる。義母は赤ん坊の存在を恥と感じ、死を願っていたのである。

バードは、赤ん坊の存在を哀れに思いながら、頭の片隅では赤ん坊の死を願っており、自らを恥じていた。

赤ん坊をやっとの思いで大学病院に移し、現実から逃避したいバードは、ウイスキーを手に入れ、火見子という大学時代の女友達の家でそれを飲み干そうと考える。

火見子は旦那を自殺で亡くし、現在は何人かの情人と性的に堕落した日々を送っていた、瞑想的なタイプの女であった。

バードは、火見子の家を訪れ、ウイスキーを共に飲み、親身に話を聞いてくれた彼女の存在に救いを感じた。

その日以来、妻との面会もせず、火見子とのセックスと酒に溺れ、現実から逃げ続ける。

バードは病院で、赤ん坊の状態は良好であり、手術によって、生存する見込みがあることを知ると、自らの生涯をが縛られ続けることに恐怖を感じ、赤ん坊の死を強く願い始めるようになる。

そこで、医者から赤ん坊にあげるミルクを砂糖水に変え、衰弱死を待つようにと提案され、バードはそれを了承してしまう。

さらに、予備校で教鞭をとっていたバードは、二日酔いが原因で授業中に生徒の前で嘔吐してしまい、それをきっかけに職も失ってしまう。

妻と面会した際にも「あなたはみすぼらしいドブ鼠のようだ」と告げられ、赤ん坊を見殺しにした時は、離婚すると告げられる。

バードは社会的にも道徳的にもどん底に落ち、妻からの信頼も失っていた。

そんな中、バードが所属していたスラブ語研究会の友人から、同じ研究会の講師で、ある小さな社会主義国家の公使館員も務めているデルチェフという人物が、日本人の不良少女と同棲し公使館に戻らなくて困っているから、なんとか連れ戻してほしいとの依頼を受ける。

バードはデルチェフの隠れ家を訪れ、このまま、公使館に戻らないと、本国に強制送還になるが、それでも戻る気はないか?と聞いたが、デルチェフは情人との愛を選び、頑なにそれを拒んだ。

さらにデルチェフは赤ん坊を見殺しにしようとしているバードのエゴを批判し、哀れんだ。

デルチェフは母国語の辞書に「希望」という意味の言葉を書き、バードに渡したところで、二人は別れた。

バードは火見子と入院している赤ん坊を病院に引き取り、ヤミの堕胎医にあずけ、始末しようとする。火見子はバードに、自分の家と土地を売って、一緒にアフリカ移住をしようと伝える。

赤ん坊を堕胎医にあずけた後、かつてバードの知り合いだった菊比古が開いているゲイバーで酒を飲んでいると、菊比古から、昔のバードとは様子が違い、何かから恐怖で逃げ惑っているように見えると告げられる。

飲みすぎたバードは嘔吐し、今まで自分を欺し、責任から逃げ続けていただけだと悟り、愕然とする。

バードは突然、火見子に、赤ん坊を堕胎医から連れ戻し、病院で手術を受けさせると告げ、別れを告げる。

*     *     *

赤ん坊の手術は成功し、脳ヘルニアではなく、単なる肉瘤であったことが判明した。

しかし、バードは自らの責任を受け止め、赤ん坊の将来のためにも、働き続けることを決心する。

ーーーーーーーーあらすじ終わりーーーーーーーーー

感想

どん底に落ちた主人公が最後に自らの自己欺瞞に打ち勝つというストーリー自体は、よくある展開だなとは感じたが、内容自体は結構強烈だった。また、性的な描写は結構生々しいので、注意が必要かもしれない。

バードの年齢の27歳というのは、若者から中年に差し掛かる過渡期であり、仕事も5,6年経験したり、結婚や出産などの適齢期で責任が増えてくる。この小説が書かれた60年代と今とでは多少数字の違いはあるだろうが、大外れはしていないだろう。

これを書いてある私も大体そのくらいの年齢なので、感情移入してしまった。最後まで読み進められたのも多少なりの共感があったおかげかもしれない。

勇敢な男なはずだったバードも、妊娠した妻など、守らなければならないものが増えるにつれ、その重圧に押しつぶされそうになっていた。
アフリカ旅行の夢も、そんな現実からの逃避であった。

おれは、いま、自分の青春の唯一で最後のめざましい緊張にみちた機会に、やむなく別れをつげつつあるのではないか? もしそうだとしても、しかし、もうそれをまぬがれることはできない。

新潮文庫「個人的な体験」 1章

そんな中、正常に育つ見込みのない子を妻が妊娠したと知らされ、ますます自己欺瞞を強め、卑怯で逃げ惑うバードになってしまった。

赤ん坊を育てなければならないとは、自分でもわかっているはずなのに、その重圧から逃げるべく、酒やセックスに溺れたのであった。

火見子も学生時代は活発な女であったが、前の夫を自殺で亡くして以来、バードと似たような、逃げ続けた人生を送っていた。
だから、バードに共感をし、手を差し伸べたのであろう。

そんなバードの自己欺瞞を自覚させようとさまざまな登場人物が、影響を及ぼしていく。どれも個性的な人格で面白い。

  • 義母や医者が示す、バードの子供に対する非道徳的な態度によって、自らがやろうとしている行為への嫌悪感が増す

  • 社会的地位より情人との愛を選んだデルチェフとの交流によって、正しき倫理観が示される

  • 火見子の女友達からバードの自己欺瞞を大胆に批判される

  • 菊比古に過去の勇敢だった自分を思い出させられる

(中略)
血なまぐさいことは病院の他人にすっかりまかせて、本人は遠方で、突然の不幸にみまわれた善人よろしく、おとなしい被害者みたいな様子をしていようとするから、精神の衛生に悪いのよ。それが自己欺瞞だということを、バード自身、知っているでしょう? (火見子の女友達)

新潮文庫「個人的な体験」 9章

そんな、どん底まで落ちたバードも、物語冒頭のゲームセンターで不良に絡まれ、一矢報いてなんとか逃げ出したシーンでは、勇敢さの片鱗を見せていたのだ。
これは最後の赤ん坊の手術を決心した時のフリとなっていそうだ。

また、火見子も赤ん坊を堕胎医につれて行く途中で、泣き止ますためのおしゃぶりとして、なぜか成長した後に使うような大きめのものを買ってきたり、運転中に道路の死んだ雀を避けてタイヤを穴ボコに落とし込んだりと、およそこれから赤ん坊を処分しに行くとは思えないような行動を見せている。

どちらも、真の悪人にはなりきれていない。

火見子は赤ん坊殺しのリスクを背負ってまで、バードにすべてを賭けようとしたのに、最後に見捨てられ哀れでならない。

しかも、バードは妻と子供という帰る場所があるが、火見子にはそれがなく、情人とアフリカに移住する他なかったのだ。なんだか救われない。

最後のアスタリスク以降の展開は個人的にはアリだと感じたが、ちょっと急展開すぎて、呆気に取られてしまった。

この小説で提示された大きなテーマである「自己欺瞞」から逃れて生きることは本当に難しいと思う。

自らの過ちを正当化するために、自分に嘘をつき続けるもので、それが高じてくると、自分に嘘をついているかどうかもわからなくなる。
自分に正直に生きていきたいものである・・・

ーーーーーーーー感想終わりーーーーーーーー

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