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自死は悪だ!踏みとどまろう!

生まれて20年しかたっていない、しかも無名の私が人生について語ったところで誰も興味はそそられないだろう。

私自身、皆に価値ある情報を提供したり、皆の注意をひくようなストーリーは残念ながら持ち合わせてはいないと思う。

これは、私の自己満足のための日記であり、一部いるかもしれない読者の共感を得るための記事である。

お楽しみいただけたら幸いだ。


「死にたい」

初めてそう感じたのは小学生の時だった、当時スポーツガチ勢だった私は毎日のきつい練習、遊ぶ時間の少なさに限界を感じていた。

しかし、中学生になると小学生の時の「死にたい」を遥かに上回る「死にたい」を感じた。

中高一貫校では寮生活をしており、小学生の頃の日にならない練習量に加えて人間関係の問題。また、それらを相談できない環境に本当に絶望感を覚えた。

専門に入学すると同時に地元に帰り、実家から学校へ通うようになった。スポーツは引退して自分が望む勉強をするために選んだ学校だったが、1年の夏から2年にかけてよりひどく「死にたい」を感じるようになった。

この経験から言えることは、いつでも人生のいつだって「死にたい」を感じているということ。

人生はいつだって”辛い”が先行してきたということだ。

個人によって人生の感じ方が変わるものの、私はペシミストであるため、いつも自身の人生を悲観的に見てきた。そのたびに、理由を考え、解決方法を模索し、今日まで生きてきた。

これを良いことだとも、悪いことだとも思わない。ただ、今日ここで共有したい内容は、「自殺」について。

以前、読書感想文のような形で書いた記事にも書いた通り、私はよく死について考える。

自殺を話題に誰かが話しているのを聞くと、私とは正反対の意見が多く耳に入ってくるのが現状だ。

自殺に対する私の意見

「自殺は意味がない」

「自殺は悪いことだ」

「自殺するくらいなら仕事・学校辞めればいいのに」

「自殺するやつは親不孝者だ」

「自殺は弱い人間がすることだ」

こういった意見をよく耳にする。これらの意見は私のものとは正反対と言っていいだろう。

先に述べさせてもらうが、私は自分の意見のみが必ずしも正しいとは感じていない。また、自殺を推奨したいわけでもない。自殺志願者の中にも程度の違いもある、また自殺を考えたことがない人には理解しがたくても当然だからだ。

私自身中学2年生になるまでは本気で自殺について考えた経験がなく、上記のような考えをもったこともあった。しかし、それは親や学校の先生に刷り込まれたものだと中学生になって気が付いた。

上記の意見1つ1つに対しての私の反対意見を皆さんと共有していきたい。

「自殺は意味がない」

よく聞く言葉の一つだと思う。冒頭で述べた通り、私が本気で自殺を考えた時期は、中学2年、高校3年、専門の1年夏~2年の時だ。

中学2年と専門の時期では周りに話す人がいなかったため、誰にも相談したことはないが、高校3年の時に一度だけ学校の先生に相談したことがある。

その時、開口一番に言われたのがその言葉だった。「自殺は意味がない」の一言が今後の人生で本気で悩んでも決して誰にも相談しないと心を決めるきっかけとなった。

そもそも「自殺は意味がない」とはいったいどういう意味なのか。私が理解した限りでは、自殺したって復讐になんかならないという意味ではないかと思う。死んでしまっては何も残らないなどといった言葉もだ。

これを言われた際に私が感じたことは、「誰もが復讐のために死にたいわけではない」ということ。

病気が辛くて死にたい人もいれば、自分自身に絶望して死にたくなる人もいる。もちろんいじめが原因で死にたくなることもあるし、何か莫大な借金を抱えたといった絶望的な現実から逃れるために死にたくなる人もいるだろう。

私はそれぞれ別の理由で自殺を視野に入れてきた。いじめ、自分自身への絶望が主な理由だ。

故に、私は自殺に意味なんか求めていない、死んでしまってはそんなもの意味がないんだから。

「自殺は悪いことだ」

これはよく賛否両論を巻き起こしていると個人的には感じる。

私は自殺そのものは当人にとって悪いことだとは考えていない。それも人生の選択の一つだ。

ただ、他人を巻き込んだり、迷惑をかけてしまうことは良くないことだと思う。

飛び降り自殺の巻き込み事故、電車への飛び込み自殺、放火などは本当に質の悪い死に方だなと思う。

当人からすれば意味なんて残らないのだからあとは野となれ山となれ精神で行うのだろうが、これは良い死に方とは言えない。

しかしながら、私も自殺未遂を起こした際はほとんど周りに迷惑のかかる方法だったので本当に反省している。

ただ、自殺を決意すると周りが一切見えなくなる感覚に陥り、何に対しても、死に対しても何も感じなくなる。(言い訳にはならないが)

自殺するのであれば、なるたけ人には迷惑のかからない方法で行うことをお薦めする。

「自殺するくらいなら仕事・学校辞めればいいのに」

まず言いたいことは、

「それができれば死なない」

死ぬくらいなら仕事辞めればいいのにという人はたいていその言葉を死んでしまった人に投げかける。

一方多くの人は、仕事や学校関係で自殺願望を抱いている人に対して「もう少し耐えてみよう」、「我慢すればいいこともある」、「3年は耐えろ」なんて無責任な言葉を投げかける。

もちろん、当人の心配をして励ますためにそのような言葉をかけるのだろうが、あまり効果的ではないように個人的には感じる。

私が自殺を考えた際にも学校をやめるという選択肢はなかった。

理由としては主に、

①学校を辞めたら両親に怒られる・落胆されると感じたから
②辞めたら自分自身に対してより強い絶望感を覚えて立ち直れないから

両親は許してくれて、励ましてくれるかもしれない。
辞めたおかげですこし気分が晴れて、時間がたつにつれて回復し立ち直れるかもしれない。

そんな考えは自殺を視野に入れた当時の私には現実的な考えには思えなかった。たとえ友人や両親に直接そう言われていたら笑顔で話は聞くものの次の日当たりで確実に自殺を決行していたと思う。

「自殺するやつは親不孝者だ」

これは、「自殺は意味がない」に少し似ている気がする。

そもそも私の場合は自殺を考えた際、両親に申し訳ないなどは感じたことがない。

中には、もちろんいるだろう。私の友人も亡くなる直前に両親と兄弟に「ごめん」と一言だけメールに残していた。

自分のことを親不孝者だと感じようが感じまいが、自殺を本気で考えたのであれば、なにも見えなくなるし、感じられなくなる。

自殺はまず心が死んで、次に肉体が死ぬと私は考えている。

「自殺は弱い人間がすることだ」

私はそうは思わない。考えてみてほしい、自殺を決行できる人間が本当に弱い人間なのだろうか。

自殺とは人生で一番思い切った決断ではないだろうか。

「勢いに任せているからできるんだ」という人もいるだろう。

では、どれだけの人が勢いに任せた決断ができるだろうか。

勢いで全財産を欲しいものに費やすだろうか。どれほどの人が嫌な仕事をきっぱりやめて起業したりできるだろうか。

この高級車を買いたい!と思った時に多くの人は貯金をしなければとお金をため続けて買わずに終わる。「人生で一度もいいから乗ってみたかったな」なんて言いながら。

これビジネスにしたら儲かるのでは?や社長になってお金持ちになりてぇ!といったことをよく耳にするが、実際は文句ばかり出てくる会社に勤め続けて我慢する人が多いのではないだろうか。

本人が望んだかどうかは別として、自殺を選択し決行する事にはかなりの行動力が必要となる。そんな行動力を発揮した人たちが弱いはずがない。

死んでしまっては意味がない?他にその行動力を活かすべき?

先に述べたように、自殺に意味なんて求めない人だっている。自殺だって人生の一つの選択だ。勉強やスポーツ、ビジネスにその行動力を発揮する人がいるのであれば、自殺する人だっているだろう。

一つ言いたいのは、本人が望まぬ形での自殺は改善されるべきということ。死にたいわけではないが、死ぬしかない。というのであれば、生きるための方法を模索すべきだと思う。

ただ、死にたくて死んだ人に対して、「自殺するやつはみんな弱いやつ」みたいな考えは否定したい。

まとめ

今回は、自殺という話題でよく耳にする言葉を否定してみました。

冒頭でも伝えた通り、私がすべて正しいわけでは決してありません。ただ、自殺願望を複数回もっていた経験から個人的な意見を皆さんとシェアさせていただきました。

元、現問わず自殺志願者の方がこういった記事を書いたり、意見を発信した際によく目にするのは、「結局死んでないじゃん」、「かまってちゃん乙www」みたいな言葉です。

まあ、確かに私は結果として死んでいないのですが、それにももちろん理由があります。

ひとまず言えることは、「死にたきゃ死ぬし、生きたきゃ生きる」

他人に煽られても別に気にしません。繰り返し言いますが、私にとって自殺は人生の選択の一つです。悪も善もありません。

ただ、自殺を推奨するわけでもなければ、止めてはいけないとも言ってません。

自分の友人が野生のゴキブリを食べようとしていたら私はきっとその友人を引き留めるでしょう。それだって一つの決断を、選択を止めていますから。

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