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いつもより長い距離を走る

と、思いつついつもと同じ距離を走るとそれ以上走るのが億劫になる。「今日はもう疲れた」と思って止める。

今日も同じことを思いながらも走り始めた。

今日はゴールに差し掛かる寸前まで悩んでいた。いつもはゴール少し手前で「もう無理」ともう一周走るのを諦め、眼の前のゴールしか考えられなくなる。

迷っているのなら走ろうと決めて、走ることに決めた。

私の走っているコースの関係上、走る距離は必然的に2倍になる。2倍と言ったら長く聞こえるかもしれないが、走っている距離は800mなので2倍は1.6kmになる。ランニングしている人がどれくらい走っているのかは知らないが私はかなり短い方であると思っているし、人に言ったら「え、そんだけ?」と言われるかもしれない。けれども、人に言わなければいい話でもある。

走り始めたは良いが、既にバテバテである。すぐに思いつくことと言えば「やっぱり止めれば良かった」である。しかし、直ぐに「走り始めたのに引き返すのは負けた気分」という謎のプライドも現れる。さらには、「走り始めたからには足は止めない」というプライドも現れる。そんなことをウダウダと考えながら、ゼハゼハ言いながら走り続ける。

そんな時に思ったのは、もう一周走るのを嫌がるのは、惨めな姿を見せたくないという気持ちがあるのではないか。自分で書くのもなんだが、世間的には若いと言われる年齢であると思っている。そんな人が学校の部活でもなく、何かによって強制的に走らされているわけでもないのにゼハゼハ走っている姿を見たらどうだろうか。個人的には嫌である。「うわー、頑張ってる」みたいな目線で見てしまうことを否定できない。

おそらくこんなことを思ってだろうか、なるべく夜の時間に走っている。しかし、ウォーキングにしろ、ランニングにしろ適したコースであるので、人っ子一人いないというのはほとんどない。真夜中に行けばその確率が高まるのかもしれないが、街灯が少ないので少し怖いというのもある。

「別に惨めでもいいじゃないか」と思うが、年齢が上がるとそう思ってしまうのかな~と思う自分もいる。何を始めるにしろ、玄人から見れば初心者はどんだけ精一杯でも惨めに見えたりするものである。よっぽどセンスがあればその限りではないが、そんな人は一握りだ。

こう分かっていても動き出せない自分がいる。

結構掘り下げて書いたつもりだが、走っている最中にはここまでのことは考えられていない。本当のはじめの惨めな姿を見せたくないくらいまでだ。

そんなことを思いつつ、ゼハゼハ言っているリズムを整えながら何とかゴールした。ゴールちょっと前には「このゼハゼハに慣れれば走れるのでは?」とか、「これがストレスに耐える訓練になる?」みたいな変なことを考えていたが、さすがにさらに1周増やすほど頭のネジは飛んでいない。

ゴールしてすぐは帰れなく、その辺の道端に座って休憩した。多分5分くらいだろうか。ちょっと前は1周しただけで酸欠気味になったが今日は違った。週に1回走るかどうかでも違うのだろうか?。と、思うと同時に学生時代の懐かしい感覚を感じた。ちょっと涼しい夜に走ったので耳の鼓膜が痛いような感じと体が温まった感じ。ああ懐かしいなと。それ以上は特段無いが、「運動したな」と。

次も同じ距離を走りたいかと言われれば微妙ではあるが、やり始めればできるというのは実感できた。














P.S.
本文とは関係ないが、見出し画像の道を作る時は、棒線を思いっきり太くして作るというやり方をたまたま知った。

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