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校正していない記事は投稿しにくい

既に1ヶ月前の出来事です。

記事をなるべく寝かせてから投稿するようになりました。

個人的にはかなり目から鱗で、「え、私こんなに文章酷いんだ」と知るきっかけになりました。

プラスに働きつつも、最近の無力感にも繋がりつつあると思います。

一昨日書いた記事もめちゃめちゃ文脈的に酷いな〜と薄々感じながら書いていました。

書いた直後に読み返してもボロボロになっているということが分かるくらい直感的に感じていました。

しかし、「(投稿までの)時間も無ければネタもない」ということで半ばヤケクソになって書きました。

必要最低限というか、「うっ(こんなのダメだ)」と妥協を重ねながら書いたわけですが、思いのほか一緒に作った見出し画像は我ながら満足しています。

手っ取り早く作ったものでも満足したりするのが、ヤケクソだったとしてもそれを諦めきれないように感じてきています。

元々、完璧主義的な所があって、かなり行動に移すのが遅いです。もちろん理想は完璧主義かつ行動が早いのが一番いいと思いますが、中々上手くいきません。

それに当時、完璧だと思っていたことも改めて見てみれば全然出来ていない事が多いです。

完璧というよりも出来ることはやったという方が良いかもしれません。おそらく、完璧主義な人は今できる精一杯を常に行うことで確実に、ゆっくりながらも自信になるようなことを身に着けていく。そういうタイプだと思っています。

しかし、やはり早くできる人には憧れを持ちますし、自分はどうして…となりがちです。参考にしたいと思って早い人に話を聞いてみると、大きな取捨選択をしていて自分には捨てきれないと思ったりして、悩む事が多いです。

私としては他人が関わる場合には特に完璧主義になりやすいです。もちろん自分1人にしか関わらないことでもそういう気質です。しかし、時には投げ出すこともあります。それならば、それを利用して、半ば適当でもいいから数をこなすほうがいいのではないか。

という考えに至り、noteに投稿している面もあります。所詮はネットのだだっ広い海にそれほど重要で無いものを投げるわけですから、それを拾ってくれる人も少ないわけです。ネットは人の関わりがあるか、ないか、とても両極端の場所だと思っています。ですが、1%でも関わりがある所に完璧主義のある自分を壊す手段があるのはいい訓練になっていると思います。他の人の目に触れる可能性があることが重要で、1人の場合はゲームでも本でもテレビでもなんでもあります。

タイトルの『校正していない記事は投稿しにくい』は再びそんな完璧主義が顔出し始めた証拠なのだと思っています。

一回、違う自分になろう(そういう自分を経験しよう)として、また戻る。結局は変わらないのか…と普段ならマイナスに感じますが、逆にまた元に戻るということは諦めがつく理由にもなります。自分にはやっぱりこっちなんだと。しかし、時にはプラスのこともあると経験し、それは間違いなく、何もしないよりはましだと自分の中で思うようになりました。


こんなタイトルから記事を読めば、いかに校正が大切かを訴えているものと捉えるでしょう。

しかし、何度校正を自分でしようとも必ずどこかでミスは出ると思ってます。

精神的には完璧主義でありつつも、ミスやグダグダさも自分の愛嬌・気分転換だと思えると気楽になれるのではと思ってます。

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