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『西田幾多郎』を読んで。

講談社現代新書の「今を生きる思想」として約100ページで読めるシリーズの西田幾多郎です。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000376523

哲学者の名前の本は同一名称でたくさんあるので出版社や著者で見分けなくてはならないので大変です。

去年?から始まったこの「今を生きる思想」シリーズは哲学者を学ぶ上ではあっさりしていて入門書としては最適だと思ってます。(入門書しか読んでない私が言うのもなんですが)

西田幾多郎に関する書籍は以前こちらを読んだことがあります。

こちらでは、絶対矛盾的自己同一ということに焦点が当てられていたと記憶していますが、「包まれつつ包んでいる」ということしか覚えていません。この関係もそれを知っただけであってよくは分かっていません。

それに比べると、今回読んだ本は西田幾多郎の人生と時系列的な研究の流れが書かれていました。

どちらにも共通することとして、

・西田哲学は難解
・『善の研究』から読み始めるのがいい

でした。私はどの哲学者にも言えることですが、直接著書を読んだことがないので、そうなんだ。と思うくらいですが、いつかは読みたいと思ってます。(序盤で挫折しそうな予感があります…)

私が以前に読んだ本との関連で書くと、絶対矛盾的自己同一は西田後期の考えであり、この本では深く触れられてませんでした。時系列的な関係性を知れただけでも良かったかと。

この本を読んで知ったことは大きく4つあります。

実在の考え方

実在という言葉はよく聞きますが、よく分かってないです。この本を読んで、3つの考え方があることを知りました。

唯物論 物質の存在
独我論 疑うことをしている自分がいることが実在

西田哲学では、経験することこそが実在と考えた。

純粋経験

実在の1つの考え方として、経験がありそれを純粋経験という言葉で表した。

純粋経験は、私たちが何かをしたと感じる以前の感覚であり、物事をそのまま受けとるという意味。この本では夕日を例に、夕日を見た瞬間に夕日と感じる前に「ハッ!」とした感覚こそが純粋経験であると説明されていた。

経験と聞くと、私という自己があって初めて経験すると思うが、それは違うのだという。

個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別よりも経験が根本的である

本書より

とある。納得できずに何度かこの文章を読み返した。このフレーズの後に普通は、逆だと思うが違う、と書いてある。

読んでいくと、乳幼児を例に出して説明している。人間が自己を持つ前(乳幼児)は目の前の物事をそのまま捉える(純粋経験)。やがて色々なことを経験し、自分が思うこと(主観)とその物事は世間でどういう認識(客観)なのかを知る。これが自己を生み出す過程であり、経験してから、主観と客観が生まれると。

物事の一般化

西田の「場所」という概念の説明のために紹介された述語の論理と呼ばれるものです。これは物事を一般化するために使えそうだと思いました。

「○は△である」
「△は×である」
「×は□である」
・・・

ということを繰り返していくと主語が述語(より一般的なもの)に包まれるという関係性が表れます。

例として、「私は人間である」「人間は動物である」「動物は生物である」というように述語を主語にして文を繰り返すとより一般化した概念が出てくるという寸法です。何かを考えた時に抽象化していって他のことと比べるのに使えそうだと考えました。

行為的直観

人が何か行動を起こすときには何かきっかけがあり動き出すことが多い。これを欲求や動機というが、西田は直観と考えた。直観と欲求や動機の違いに関しては触れられていなかったように感じた。
実際に直観に従って動き出すと、動き出した結果から発見することもあり、これもまた直観であると言う。これはnoteを書いていてよく感じるが、思わぬ視点に気づくことが多い。他にもゲームにしろ、他のことに置き換えても、実際にやってみると物事への解像度が上がることがある。行為と直観のサイクル(行為的直観)が大切なことを改めて学んだ。

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