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小説「ニル婆と私」

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中編青春小説「ニル婆と私」を読むことができます。
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#小説

ニル婆と私(23)

ニル婆と私(23)

 自宅への道を、今度はゆっくりと、確かめるように辿っていく。この家には大きな桜の木があって、あそこの駐車場にはやたらと背の高い草が生い茂っている、とか。そういうひとつひとつのことを、しまいこむように頭の中にインプットしながら行くと、見慣れた街がとても新鮮に見えた。
 劇的な変化がおこるわけでもない。目に見えた救いがあるわけでもない。物語としては単調だし救いがない。そんな日々を送っていると思う。けれ

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ニル婆と私(22)

ニル婆と私(22)

【忘れた頃に陽はさすもんさ】

 月、火、水の三日間。私は私なりにもがき苦しみながら、ニル婆の言う『光さす時』に向かって必死に手を伸ばし続けていた。学校が終わった後は真っ直ぐ帰宅し、ノートに向かってプロットを書きつける。登場人物たちへは脳内インタビューを繰り返して、彼らの息遣いをより確かに感じられるようにした。執筆の事前準備としては完璧だ。
 本編用の分厚いノートも文房具屋で購入した。けれどその表

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ニル婆と私(21)

ニル婆と私(21)

「ついてきな」
 そう言うとニル婆は、静かに椅子から立ち上がり、店と呼ぶにはなんだか頼りない、ワンセットの机と椅子を置き去りにそのまま歩き出す。皺くちゃの右手が机の前面に、『只今外出中』と書いた紙を貼り付けた。
「えっ、ちょ、どこいくの⁉」
 動転した私をよそに、ずんずん歩いていくニル婆は意外と足が速い。
 置いていかれないように必死で、年の割に背筋の伸びた小さな背中を追いながら、商店街を駅とは反

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ニル婆と私(20)

ニル婆と私(20)

【例のババァの言うことにゃあ】

 夢を、みていた。
 はじめは絶対に叶うと思っていて、けれど挫折して死にたくなって、なんとか生き延びたはいいけれどどうしたら叶えられるのかわからなくなってしまった夢。
 大切に大切に、育てていた種のはずだった。温めていた卵のはずだった。
 どうして間違ってしまったんだろう。
 どこでどうすればよかったんだろう。
 泣いて泣いて泣き疲れて、突っ伏していた椅子の座面も

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ニル婆と私(19)

ニル婆と私(19)

 降り注ぐ母さんの小言を滝行のごとく受け流しながら、用意されていた朝食を最速タイムで口の中に押し込む。逃げるようにいったん自室へと引っ込んだ私は、荷物をまとめて足早に図書館へと向かった。
 その後私が牧瀬さんと過ごした時間は、穏やかなものだったと言っていいと思う。小説を書くことも本を読むことも辛い私はぼんやりと考え事をしたり、持ち込んだ宿題をしたりしていたけれど、牧瀬さんは特に嫌がることもなく、時

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ニル婆と私(18)

ニル婆と私(18)

 牧瀬さんに手をひかれて私がやってきたのは、六畳くらいの広さの公園とも呼べないちっぽけな広場だった。ばねでゆらゆら揺れるパンダの乗り物に、ちょこんと置かれたベンチ。家からそう遠く離れていないのに、こんな場所があるなんて知りもしなかった。
 牧瀬さんは私をベンチに座らせると、その隣に腰かけ、ぽつりぽつりと話しだす。
「謝りたいとは、思ってたんだ」
 両足を前後に揺らしながら、その爪先を見て牧瀬さんは

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ニル婆と私(17)

ニル婆と私(17)

【泣いて疲れてお眠りよ】

 結局小説を書くことはおろか、パソコンを立ち上げることすらできずに私の土曜日は終わってしまった。現在の時刻は午前一時。暦の上ではあれもこれもみんな、昨日の出来事だ。
 こんな時間になるまで、なにもぼーっとしていたわけじゃなかった。幾度となく「書こう」と思ったんだ。思わないわけがない。
 しかしそのたびにリフレインする牧瀬さんの声が、私の中に芽生えた創作意欲を無残にもかき

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ニル婆と私(6)

ニル婆と私(6)

「松コース九万円、竹コース六万円、梅コース三万円」
 開口一番放たれたニル婆の一言で、上がりきっていた私のテンションはだだ下がった。
「高っ!」
 私がそう言って絶望することなんてわかりきっていただろうに、ババアは頬杖をついたままにやりと笑ってみせる。
 ビルとビルとの隙間にあるこの裏路地には、どんなに天気がよくてもうっすらとしか陽がささない。真っ昼間にしては薄暗いこの場所でまじまじと見ると、顔に

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ニル婆と私(5)

ニル婆と私(5)

 泣き疲れて眠る、なんて何年ぶりのことだろう。
 本日二度目の起床はそれなりの清々しさを伴っていた。すっかり高くなった太陽が、澄み渡る青空をバックにさんさんと光り輝いている。絵に描いたような気持ちのよい午後。枕元の時計を確認すると、ちょうど二時になったところだった。
 ベッドから身体を起こした私は、直感的に自分の身体が平熱に戻っていることを悟る。まぁ、単に先延ばしになっただけとはいえ、束の間ストレ

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ニル婆と私(4)

ニル婆と私(4)

【みっともなくも縋ってみせる】

「うー……」
 翌朝、私は死んだような呻き声をあげながら自室の天井を眺めていた。頭を中心に全身がずぅんと重く、瞳が潤んでいるせいか視界は少し歪んでいる。
「学校には連絡しといたからねっ! お昼は、昨日のカレーの残りあっためて食べといて」
 仕事着に着替えた母さんは、ノックもせずにドアを開けるとずかずかと室内に入り込み、そうまくしたてた。
「まったくあんたは、昔から

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ニル婆と私(3)

ニル婆と私(3)

 物音をたてないように細心の注意を払って玄関の扉を開け、身体を滑りこませる。瞬間、ほのかにただようスパイシーな香りに、私は思わず身体を強張らせた。
 この匂い、カレーだ。急なメニュー変更自体はよくあることだったが、ババアの予言めいたセリフといきなり合致してしまった現状が恐ろしい。私は眉間に皺を寄せながらも、気を取り直して靴を脱ぎ、段差を上がった。
 廊下の奥の方から明かりが漏れているし、母親はきっ

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ニル婆と私(1)

ニル婆と私(1)

【こんな出会いは望んじゃいねぇ】

 どうしたら楽に死ねるかとそればかり考えていたから、顔に死相がでていたのかもしれない。
「ちょっと、そこのあんた」
 いきなり見知らぬ婆さんに呼びとめられた。七月第一週の日曜日。梅雨のあけきらぬ、蒸し暑い昼下がりのことだった。
 日差しから逃れるように入った商店街の裏路地に、どどんと陣取っている机が一つ。その向こうには、いかにも怪しげな黒ずくめの婆さんが座ってい

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