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ニル婆と私(21)

「ついてきな」
 そう言うとニル婆は、静かに椅子から立ち上がり、店と呼ぶにはなんだか頼りない、ワンセットの机と椅子を置き去りにそのまま歩き出す。皺くちゃの右手が机の前面に、『只今外出中』と書いた紙を貼り付けた。
「えっ、ちょ、どこいくの⁉」
 動転した私をよそに、ずんずん歩いていくニル婆は意外と足が速い。
 置いていかれないように必死で、年の割に背筋の伸びた小さな背中を追いながら、商店街を駅とは反対方向に抜けていく。
 能天気に流行りの音楽をのせている有線が、だんだんと遠ざかっていった。辺りにひと気は少なく、申し訳程度にある商店も閑古鳥が鳴いている。変な形に交わった道路の隙間にはやはり変な形の公園があって、うっそうと生い茂る緑が、まるでそこを辺境の片田舎であるかのように錯覚させた。
「なにぼっとしてんだい。こっちだよ」
 ニル婆がそう言って入って行ったのは、公園の向こう側にある小さなお寺だ。いや、用があるのはどうやらお寺自体ではないらしい。彼女の目的地は、寺の敷地内にある小さな墓地であるようだった。
 いくつもそびえる墓石の間をするりするりとすりぬけ、ニル婆は「勝池家之墓」と書かれたお墓の前で膝を折った。事情はかけらもわからないけれど、ニル婆のいつになく神妙な様子にただごとではないような感じを受けて、私もその場にしゃがみこむ。
 お墓に手を合わせているニル婆は、もはやロックでも大魔王でもない、ただただ普通のおばあさんに見えた。おそらくは故人の安らかな眠りを、ただ一心に祈っている。
 ここは誰のお墓なのだろうか? ニル婆の両親、あるいはご主人とか?
 墓石に向かって手を合わせながらも、隣のニル婆をちらちらと横目で伺う。
 合わせていた手を下ろしたニル婆は、ぽつりと零した。
「ここにはね、あたしの旦那と――娘が眠ってるのさ」
 しんと静まり返った湖面のように、その言葉から感情の揺らぎは読み取れなかった。けれどそこには、底知れない悲しみの影が落ちている。
 私なんかが口を挟む余地なんて到底ありはしなかった。ただ黙って、ニル婆が次に口を開くのを待っている。
「あんたは信じないかもしれないけどね。あたしだって昔はそこいらにいそうな、何の変哲もないおばさんだったのさ。旦那は少し変わってたけどね。25の時に生んだ娘も、すくすく大きくなった」
 ニル婆の皺くちゃな指が、今度は祈るような形で組まれ、身体の前に置かれる。
「あの娘はロックにハマっててね。自分はロックミュージシャンになるんだって、そればっかり言ってたよ」
 ニル婆の両手に、不意にぐっと力がこもった。
「27クラブ、って知ってるかい?」
 耳慣れない単語に、私は首を振る。
「あの子が特によく聞いていた、このロックバンド」
 そう言ってニル婆が、自身の着ている黒Tをつまんだ。
「ここのボーカルとかね。色んなミュージシャンやアーティストが27歳で亡くなってるから、そんな言葉があるらしい」
 Tシャツの襟首に指をかけたまま、静かな口調でニル婆は言った。
「あの子は、27クラブの一員になっちまったのさ」
 盗み見た瞳の陰りは、おそらくは何年も、あるいは何十年も、地層のように積み重ねてきた後悔を色濃く感じさせる、
「どうしてあんなことをしたのかってね。躍起になって原因ばっかり探して、あの子の好きだった音楽を聞いてさ。けどね、そんなことしたって好きなバンドがやたら増えただけだったよ。今じゃあ一緒にライブに行ってた旦那ももういない。寂しいもんだね」
 ニル婆はそう言って少しだけ笑い、空を仰いだ。
「あんたに、『何者かになろうとするな』って、言ったろ」
 私はその問いかけに、こくりと頷く。
「その言葉には続きがある」
 ニル婆はそう言って、ゆっくりとこちらを向き、噛み締めるように告げた。
「何者かになれなくったってね、生きていりゃあそれだけでいいってことも、あるのさ」
 それは多分、ニル婆が娘さんに伝えたくて、でも伝えられなかった言葉なんだろう。そこにあるのは確かに優しさだ。けれど……。
「私には、そんな風に思ってくれるひとはいないよ」
 脳裏をよぎったのは、口うるさくいちいち私のことを否定しなくては気がすまない母親のことだ。
 ニル婆は短く、
「……そうかい」
とだけ言って、身をのりだし、そっと右手で墓石に触れる。まさしく親が子供の頭を撫でるような仕草だった。こういう母親もいるんだな、って思う。別に羨ましくなんかないけれど、こういう家に生まれてたら、私は一体どうなってたんだろうな。
「さぁ、ここで、松コースの交換条件。『本日の下僕メニュ―』だ」
 腰に手をやり、偉そうにふんぞり返りながら、くるりと身体をこちらに向ける大魔王。にやり、と笑った顔は、たしかにいつものニル婆のそれだった。
「あんたはこれから金輪際、自分の手で命を絶つんじゃないよ。これは命令だ。それに従えないっていうんだったら、あんたの今後なんて知ったこっちゃない。勝手にしな」
 胸の前で両腕を組んで、ニル婆はいつものようにけひゃひゃと笑う。
「ただしあたしに占ってもらう以上、あんたは天寿を全うしなきゃああならない。どうだい? っていっても、あんたにはこの条件にのる以外の選択肢なんてないんだけどね」
 私は、ただ黙ってニル婆の言葉を聞いていた。けれど理解するにしたがって、そのあんまりな理不尽さに反抗心がむくむくと湧き上がってくる。
「……偽善」
 駄々っ子のような口調で、私は言った。
「――私に娘さんを投影してる。そんなのただの自己満足だよ」
 ぐっと拳を握りしめたのは、そうしていないと立っていられなかったからだ。
「なんとでもお言い」
 ニル婆はそう言って、再びけひゃひゃと笑った。
 ほら、やっぱりこの婆さん、やっぱりただのクソババアだ。自分の目的を達成する為なら手段を選ばない、酒とパチンコが大好きなクソババアだよ。
 多分今って、そうやってこきおろしながら、あんたの言い分のなんと理不尽なことかって怒る場面だ。なのに。どうして私は、こんな風にぐしゃぐしゃな顔で涙を流しているんだろう。
「ほら、早く返事をおし」
 ニル婆の口調は、優しかった。
「わかったよぅ。わかったから……」
 目元を拭いながら幼児のようにそう答えると、にやりと笑ってニル婆は言う。
「それが、あんたの答えだね」
 がりがりの鳥ガラみたいな腕が、ゆっくりと目の前に差し伸べられた。まるで何かのパワーを送るみたいに、ニル婆は私の額に手をかざす。
「このままいけば、光はさすよ。もうまもなくだ」
 それは、まさしく私の求めていた天啓だった。
「本当? それって、このまま頑張れば私は小説家になれるってこと⁉」
 あまりの驚きに涙もひっこんだ。食らいつくような勢いでそう問いただす私に、ニル婆は右手を差し出して「そっからは別料金だよ!」と舌を出す。「なんでだよぉ!」と食い下がる私。ここ最近何度も繰り返された、いつもの風景だ。
「もっとサービスしてくれたっていいじゃん!」
「なに言ってんだい! 金稼いで出直しな!」
 こうやってなんてことないやりとりが『お決まり』になっていく瞬間の、なんと優しいことだろう。それだけでなんだかもう泣けてきて、私はもう一度ぐすんと、ニル婆に悟られないように鼻をすすった。

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