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ニル婆と私(22)

【忘れた頃に陽はさすもんさ】

 月、火、水の三日間。私は私なりにもがき苦しみながら、ニル婆の言う『光さす時』に向かって必死に手を伸ばし続けていた。学校が終わった後は真っ直ぐ帰宅し、ノートに向かってプロットを書きつける。登場人物たちへは脳内インタビューを繰り返して、彼らの息遣いをより確かに感じられるようにした。執筆の事前準備としては完璧だ。
 本編用の分厚いノートも文房具屋で購入した。けれどその表紙の立派さが、用紙のつややかさが、私に失敗することの恐怖を思い出させる。また上手くいかなかったらどうしよう。途中で投げ出してしまったらどうしよう。そんなもの、『書けない』ことに比べれば、恐ろしくもなんともないはずなのに。
 血反吐を吐きながら自身の創作と向き合っていたら、木曜日、今度は別のところから出血が始まった。月に一度の例のあれだ。自慢じゃないけど、私の生理はなかなか重い。期間中は鎮痛剤が手放せないし、なによりメンタルの振れ幅が半端じゃないのだ。
「ううぅ……」
 木曜日。学校から帰宅するまでの道のりのことは、ほとんど覚えていなかった。制服のまま倒れ込んだベッドの上で、手負いの獣みたいに身体を丸めてお腹をあたためる。
 この時期に珍しい曇天は、まるで私の心情をそのまま表したみたいだった。ずきずきと痛む下腹部と、その奥底によどむどす黒い自己嫌悪。台風みたいにぐるぐると渦を巻くそれは、激しい風雨を伴いながら私の心を激しく揺さぶる。できそこない。お前なんて。死んでしまえ。死んでしまえ!
 断罪するような声が、頭の中で激しくこだまする。ぼろぼろと涙を流しながら、私は必死でそれらに抗った。そうだ、私は自らの手で死ぬわけにはいかない。
 約束があるんだ。脳裏に蘇ったニル婆の不敵な笑顔は、私の中のお守りだった。死んだらだめだ。死んだらだめだ。繰り返しながらぎゅっと、心の手で握りしめるように、浮かんだ彼女の像に縋る。
「このままじゃ、だめだ……」
 そう言いながら立ち上がることができたのは、一つの小さな奇跡だったと思う。少なくとも、これまでの私からは想像のつかなかったことだ。嵐のような腹痛と鬱に喘ぎながら、私はショルダーバッグを手に取り、よろよろと自室を後にする。
 階段を降りて、玄関をすり抜けて、もう向かう場所は決まっていた。
 いつもは歩いて向かう道のりだけれど、今日は身体が耐えられそうにない。自転車にまたがって、そのままよろよろと走り出す。
 予測のできない動きをする小学生男子とか、突然現れる野良猫なんかをひきかけながら、私はようやくたどりついた。
 いつもの裏路地。そこにはあの不敵な笑顔を浮かべた大魔王が、小さな机の向こうに鎮座していて……。
「――いない……」
 私は呆然と呟いた。そう。なんとニル婆がいない。いつもの机には『只今外出中』という手書きの張り紙がくっつけてある。くそ。あのババア、どうしてこんなに肝心な時に。
「……」
 私はぐるりと自転車の向きを反転させると、がむしゃらにペダルをこぎ、駅前商店街を爆走した。そのまま公園通りに抜けて、木下公園を横目に、まるでありとあらゆる景色を睨みつけるようにして。
 涙をこぼさないように必死だったのは、事故らない為じゃない。涙腺の堤防が今決壊したら、当分修復不可能だということがわかっていたのだ。私はまだ死ねない。諦めることもできない。私のやりたいことを。生きることを。
「――っ……!」
 本当なら、腹の底から声を出して叫び散らしたい気分だった。でもそうしたらきっと泣いてしまう。だから私はぐっと奥歯を噛み締め、叫び声になるはずだったエネルギーの全てを両足に送って、ものすごいスピードになるまでぐんぐん自転車をこいだ。頬を叩く生温い風と共に、全てを振り切ってしまいたいような気持ちだった。
 不意に、耳慣れたメロディが、耳の中に滑り込むように響く。商店街の有線が、風にのって届いたのだろう。そらで歌えるくらいに聞き込んだこの曲は、中学の頃から追いかけてきた邦ロックのバンドの代表曲だ。いつも前を向き、希望を歌う彼らの音楽は、いつも私の創作と共にあった。
 そうだ。これを聞いた瞬間にぶわっと『あの物語』が、私の脳味噌の中に生まれたのだった。傑作だと信じて書いて、創英賞では一次で落ちて、でも、やっぱり私は大好きな物語。
 ああ、これだよ。
 私は、さきほどまでとは全く違った感じで泣きたくなった。頭の中ではあの物語のキャラクターたちが、まるでアニメのオープニング映像みたいにいきいきと動いている。このサビの部分では、このキャラとこのキャラがアップになる。そこまで全て決まっている。彼らはもう、ここに、生きているんだ。
 信号にひっかかったわけでもないのに、私はその場に足を止めた。自分の中にたしかに創作の世界が息づいていることが嬉しかった。私はまだやれるんじゃないか。そういう思いが、にわかにこみあげてきた。
 だから自転車のハンドルまできらきらと輝きだしたのではないかと、はじめはそう思ったんだ。ほら、アニメなんかでよくある、気持ちの変化が視覚に現れちゃいました的なあれ。でも違った。
 厚い雲を引き裂くように、一筋の光が差し始めたのだ。スポットライトのようだったそれは少しずつ広がっていき、やがて辺りをまばゆく照らしだす。
 びりびりと包み紙を剥がしていくように雲は散り散りになり、やがて光に食べられて跡形もなく消えてしまった。
 そうしてあらわれた空は、さきほどまでの曇天が嘘のように晴れやかにすみわたっている。小説にしたらちょっとわざとらしくなっちゃうんじゃない、って思うくらいの、劇的なワンシーンだった。
「……はは」
 私は小さく笑って、再び自転車をこぎだす。お腹は相変わらず痛かったけれど、わだかまっていた涙のもとは、いつのまにかどこかに消えていた。
 家に帰ったら、とにかく音楽を聞きあさろう。そして次に書きたいお話の、イメージソングを探すんだ。だって私の中にたしかに生きている人たちがいるのに、私の勝手で彼らを殺してしまったら、その一生は、誰にも知られることなく終わってしまう。そんなの殺人だよ。私には、彼らの思いを形にするという『仕事』があるんだ。

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