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ニル婆と私(19)

 降り注ぐ母さんの小言を滝行のごとく受け流しながら、用意されていた朝食を最速タイムで口の中に押し込む。逃げるようにいったん自室へと引っ込んだ私は、荷物をまとめて足早に図書館へと向かった。
 その後私が牧瀬さんと過ごした時間は、穏やかなものだったと言っていいと思う。小説を書くことも本を読むことも辛い私はぼんやりと考え事をしたり、持ち込んだ宿題をしたりしていたけれど、牧瀬さんは特に嫌がることもなく、時たま気が向いたら私の解きあぐねている問題の解法を教えてくれたりした。なんだこれ。彼女、めちゃくちゃいい子じゃないか。
 私は、隣に座ってネームと向かい合う牧瀬さんの横顔を盗み見る。真剣そのもの。痛いくらいの緊張感が、私の右半身の肌をぴりぴりさせた。多分、こうだと思ったものには妥協できないタチ。そんで、ついそれが口にでちゃう。だから変な噂をたてられたりするのかな。話してみれば、こんなに面倒見がよくて、気も優しいのに。
「……何?」
 怪訝な顔でそう尋ねられて、「ううん、なんでもない」と首を振る。牧瀬さんはそれ以上追及する時間も惜しいという感じで、再び目の前のノートに視線を落とした。私もそれに倣おうとして、数学のノートに目を向ける。しかしなかなか数字が頭に入ってこない。やっぱ根っからの文系なんだよな、私。
 弱めの冷房が、身体を冷やしすぎずかえって心地よかった。窓の多くとられたこの図書館では、日中ならどこにいても照明器具以外の光を簡単に感じることができる。
 ぬくぬくと身体の底から、何かが湧き上がってくるのを感じた。創作意欲と呼ぶにはまだ幼い、小さな小さな衝動の種。でも、もしかしたらこいつから双葉が出て、本葉が芽吹き、やがて蕾から花が咲くかもしれない。
 私は数学のノートの隅に、思いのままにネタを綴り始めた。
 この間まで考えていたファンタジーとは全く別の物語だ。舞台は現代で、主人公は女子高生。彼女は夢を――そう、どうしても叶えたい夢を抱いていて――それは一体、何だろう?
 心の中にぽんと生まれた登場人物に、一つずつ質問を重ねていく。貴方はどんなひとですか? なにを思って暮らしていますか? 何をするのが好きで、何をされるのが許せませんか?
 紐を手繰り寄せるようにして、少しずつ彼女との距離を詰めていく。輪郭があらわになり、肌の色がわかるようになり、ついには間近で呼吸を感じられるくらいになった。今だ! 私は静かに、しかし勢いよく立ち上がり、牧瀬さんに言う。
「ちょっと、帰る」
 牧瀬さんは私の顔を見ると、にやりと笑って、
「ん、わかった」
とだけ言った。少なくとも悪い気分でないことくらいは、伝わっているのだろう。 
 私は急いで荷物をまとめると、図書館を後にする。今日は自転車だから、風を切って、ちょっと鼻歌なんて歌いながら家までの道をぶっとばして帰った。帰宅するのがこんなに楽しいなんていつぶりだろう。だって私、もしかしたらやっと小説を書けるかもしれないんだ。
 玄関から忍び込むように家に入り、そのまま静かに自室へと身体を滑り込ませる。しかしそこで私は愕然とした。ない。机の上に鎮座していたはずの、ノートパソコンがどこにも見当たらないのだ。
 母さんが仕事で使っていたもののおさがりだから、結構な年代物で、とてもどこかにいってしまうようなサイズではない。私は青くなりながら部屋中をひっくり返して、パソコンを探した。そんなところにあるわけなんてないのにタンスの中まで漁りつくして、部屋の中はまるで空き巣が入った後みたいだ。
「何これ、きったない」
 そう言いながら、母さんがノックもせずに部屋に入って来た。
「――私の、パソコンは?」
 押し殺した声でそう尋ねる。ここまで探してないとなれば、犯人は目の前の人物以外に考えられない。
「ああ、ちょっと返してもらったわよ。仕事場で、パソコン欲しがってる子がいてね」
 こともなげにそう言われて、拳銃で頭を打ちぬかれたようなショックが走った。
「あんたのとこにあっても、宝の持ち腐れでしょ。うちの後輩のところで役に立つ方が、パソコンも喜ぶわ」
 からからと笑いながらそう言われて、怒りでどうにかなりそうだ。握った拳を震わせている私の異変になんかまったく気づく様子もなく、母さんはぱたぱたと私の部屋を後にする。
「あんたも下らない夢じゃなくて、現実を見なさいよね。母さん、今度の面談で恥かくの嫌だからね!」
 言い捨てられた言葉が、ぐわんぐわん頭の中にこだまする。どうしてあのひとは、こんなに私を怒らせるのが上手いのか。
「……嘘、でしょ」
 零れ落ちた言葉の絶望的な響きが、かえって今の私を取り巻く状況に現実味をもたせる。
 あんなに頑張って書いた十六万字。書きかけのお話のいくつか。ネタ帳がわりにしていたテキストデータ。本当に、全部、全部、ここからなくなってしまったのだろうか?
「――うっ……」
 枯れ果てたと思っていた涙が、だくだくと頬を伝っていくのを感じる。目の奥に感じた鈍痛がゆっくりと広がり、やがて頭全体が重く、締め付けられるように痛み始めた。
「……うっ、うわぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」
 声が枯れてもいいというくらい叫んだのは、そうしなければいられなかったのが半分、母親へのあてつけが半分。
 でもきっとあのひとは、「ショック療法」とか「これで改心した?」とか平気な顔で言うんだろうな。わかってる。わかってるんだ、そんなことは。
「うっ、くっ、ひぐっ、うっ」
 こみあげる嗚咽に喘ぎながら、どうか私の中に生まれた物語の種が死んでしまいませんようにと、ただそれだけを祈る。
 そんなことがあったらもう本当に、私はこの家から、世界から、消え去ってしまうよりほかに道がないよ。

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