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才能を超える努力の力とは?『GRIT』が教える限界まで挑戦する方法・と思わせて・・・

才能を超えて:限界まで努力するという選択

「自分には才能があるのか?」

この問いに悩む人は多い。

才能がなければ努力しても無駄なのではないか、と考えることもあるだろう。
しかし、才能が全てを決定するわけではない。

むしろ、才能の有無に関係なく、自分の限界まで努力してみるという視点を持つことが、真の成長と成功への鍵となるのではないだろうか。

アンジェラ・ダックワース博士の著書『GRIT・やり抜く力』は、その証左として多くの示唆を与えている。

才能の束縛を超えて

才能とは、生まれ持った特定の能力や特性を指し、確かにそれが最初の段階では目立つことが多い。

しかし、ダックワース博士が示すように、才能というものはしばしば人々を「できるかできないか」という二元論に閉じ込める見えない枷でもある。

「自分には才能がない」と感じることで、可能性の扉を自ら閉ざしてしまうことがあるのだ。
しかし、才能の有無は出発点に過ぎず、その先の成果を決定するのは「やり抜く力」、すなわち情熱と粘り強さの組み合わせである。

『GRIT・やり抜く力』によれば、才能が低いとされる者でも、情熱と粘り強さを持って努力を重ねることで、才能ある者を凌駕する成功を収めることができる。

ここで重要なのは、「自分には才能がないから」とあきらめるのではなく、その枠組みを超えたところで自分の限界まで努力してみることである。
そうすることで、見えてくる新たな可能性がある。

限界まで努力することの価値

限界まで努力するとは、単に成功するための手段ではない。

それは自己発見の旅であり、自分の可能性を知るための挑戦でもある。

たとえば、登山家が山の頂を目指す時、その途中で自分の限界を感じることがある。
しかし、限界を感じたその地点こそが、真の挑戦の始まりであると彼らは知っている。
ここで重要なのは、やり抜く力を持ち続けること、つまりどんな困難に直面しても、その情熱を持ち続けることである。

ダックワース博士の研究では、学問、スポーツ、ビジネスなどさまざまな分野で成功を収めた人々に共通するのは、才能ではなく、「やり抜く力」であったことが示されている。

彼らは皆、才能があったわけではない。

むしろ、その才能をどれだけ努力によって磨き上げ、持続可能な成功に結びつけたかが決定的な違いを生んだのである。

たとえば、初めてピアノに挑戦した人が、指が思うように動かず、音楽が流れるように演奏できないと感じたとしよう。
だが、限界まで練習を重ね、やり抜く力を発揮することで、ある日突然、指が鍵盤の上を舞うように動き出す瞬間が訪れる。
それは、まさに才能を超えた努力の賜物である。

「なんでもやってみる」姿勢の重要性

やり抜く力を育むには、「なんでもやってみる」姿勢もまた重要である。

ダックワース博士は、さまざまな挑戦を通じて自分の情熱を見つけ出すことが、やり抜く力を形成する上で不可欠であると説いている。

トルストイが軍人、農民、作家といくつもの顔を持ち、最終的に作家としての道を見出したように、「なんでもやってみる」ことで、自分が本当に情熱を持てる分野を見つけることができる。

失敗を恐れず挑戦し続けることで、人は自分の本当の可能性を知ることができるのである。

やり抜く力が発揮されるのは、むしろ失敗から学び、再挑戦するその過程にこそある。
何度も挑戦し続けることで、失敗を糧にして成長する機会を得られるのだ。

どの程度の努力が必要なのか

限界まで努力するとは、具体的にはどの程度の努力を指すのか。

ダックワース博士は、努力を「量」と「質」の観点から考えるべきだと述べている。
努力の量とは、どれだけの時間やエネルギーを投じるかを意味するが、同時にそれが単なる反復練習に終わらないようにする必要がある。
質の高い努力とは、常に目的意識を持ち、進歩を計測し、改善を繰り返すことである。

また「努力の臨界点」を超えた先にこそ、本当の成長があるとされる。

この臨界点とは、最初の100時間ではほとんど進展が見られなくても、200時間、300時間と続けるうちに、急速に成長が現れる地点である。

努力を続けることでしか到達できないこの地点に至るまで、「やり抜く力」を持って行動し続けることが、才能を超えた成果を生み出すことができるのだ。

才能を気にせず、限界まで挑戦することの意義

「才能がないから」と挑戦を諦めることは、まだ見ぬ可能性を捨てることに等しい。

むしろ、才能にこだわらず、一度限界まで努力してみることで、新たな自分に出会うことができる。

たとえば、マラソンランナーが初めて42.195キロを走り抜く時、その過程で何度も「限界」を感じる。
しかし、走り続けることで自分の心と体が持つ本当の強さに気づき、その限界を超えていく。

『GRIT・やり抜く力』で示されるように、限界を超えた努力が、成功への道を切り拓く。
才能を超えた努力こそが、新しい挑戦を通じて自分の情熱を発見し、最大限に引き出すための原動力となる。

自分の全力を尽くすことで初めて、本当の意味での「成功」と「成長」を手にすることができるのだ。

やり抜く力で才能を超える

才能にとらわれず、限界まで努力するという視点は、自らの成長と新たな発見の扉を開く。

才能はあくまでスタート地点であり、その先で待っているのは、限界を超えた努力の結果として得られる無限の可能性である。
ダックワース博士が示すように、「やり抜く力」を持つことで、才能の壁を超え、成功と成長の旅を続けることができるのだ。

才能を気にせず、自分の限界を試すことで、本当に価値のある経験と成果を手に入れることができるのである。

で、本当は終わりだけど

物事は一面だけを捕らえずに、少し反する立場で茶々を入れてみると思考が再回転し始める。
ってことでやってみたい。

努力至上主義の落とし穴

「やり抜く力」とは、確かに一部の者にとって有効なアプローチである。

しかしながら、この理論は努力をあまりにも美徳とし、才能や環境の違いを軽んじる一面があるのだ。
たとえば、ある者がどれほど一生懸命に努力しても、身体的な能力や精神的な限界という壁に阻まれ、その努力が報われるとは限らないという現実が確かにある。
ただ限界まで頑張れば「甲子園に出られる」「プロになれる」というものではないだろう。

思うに、極限までの努力を讃えるあまり、その代償として過労やバーンアウトの危険を見過ごしているのではないか。

無理をして働き続ければ、心身に害を及ぼし、長期的な成功を損なう結果に至ることもあるだろう。
皆が限界まで努力できるわけではないし、定量的ではない「限界」という言葉そのものにも疑問が生じる。
またその過程で命を落とす者もいるのだとすれば、限界までの努力をすべきだという考え自体が誤りである可能性も見えてくるのではないか。

人それぞれの体力と精神力、その限界を見極めながら進むことが大切なのだ。

才能の役割を無視することの危うさ

『GRIT・やり抜く力』において、「才能はただの出発点に過ぎない」と述べられているが、これは現実を見据えた見解とは言い難い。

むしろ、才能があるからこそ、その出発点からさらに成長することが可能になるのである。

たとえば、音楽家が指先の繊細な感覚を持ち、音に対して鋭敏に反応できる聴力あるとすれば、それは「単なる出発点」とは呼べないものになるのではないか。
スポーツ選手が優れた反射神経を備えているように、生まれ持った資質や感性が特定の分野での成功に不可欠な場合が多い。

努力はもちろん重要であるが、才能を全く持たない状態から、ただ努力のみで頂点に立つというのは、理想論に過ぎないのである。

才能と努力の相互作用が成功には不可欠であり、そのバランスこそが個々の成果を左右する。

才能がなければ、どれほど努力しても達成できる限界はあるし、逆に才能があっても努力を怠れば、その才能は眠ったままで終わる。
才能という土台があってこそ、努力が花開くのだ。

すべての成功に「やり抜く力」が必要とは限らない

成功の定義は極めて多様であることを忘れてはならない。

ダックワース博士の研究が、学問、スポーツ、ビジネスの分野に焦点を当てていることからもわかるように、「やり抜く力」はこれらの分野で有効であろう。

しかし、他の分野、たとえば芸術や仕事、社会的な運動では、異なる種類の「力」が求められる場合がある。
そこでは、情熱と粘り強さだけでなく、柔軟な思考、協力の精神、共感などの要素も不可欠になるのだ。

想像してみてほしい。
画家がキャンバスに向かい、絵を描くとき、その筆先に宿るのは単なる努力ではないだろう。

心の奥底から湧き上がる感情や瞬間のひらめき、他者との交流や自然との触れ合いが作品に生命を吹き込む。
ここで求められるのは、やり抜く力だけではなく、むしろ柔軟な思考と創造性の力となる。

努力の限界を知ることの重要性

努力の価値を認めることは当然であるが、その努力には限界があるという現実もまた認識すべきである。

限界を無視してただ努力し続けることは、逆に非効率であり、資源の無駄遣いにもなりかねない。先日の猫山課長の一説にも通じるではないか。

むしろ、自らの限界を知り、その範囲内で最大の成果を上げるための戦略を考えることが、より現実的で効果的なアプローチと言える。

登山家が険しい山を登るとき、常に全力を尽くすだけではなく、適切なタイミングで休息を取ることも必要になる。
頂上を目指すだけが目的ではなく、無事に下山することもまた成功の一部なのだ。
だとすれば、危険を察知して、途中で撤退する判断をするのも、また登山の在り方と言えるのではないか。
登山家は、自らの限界を知り、それに合わせて行動することが生き残るための戦略なのだ。

バランスと自己認識の大切さ

結論として、「やり抜く力」によって努力の価値を強調する点で意義深いが、万能の成功法則として受け入れるにはやや単純化しすぎている面がある。

成功には、才能、環境、努力、そして状況に応じた柔軟な思考のバランスが不可欠であり、これらすべてを調和させることが真の礎となる。

我々は、「やり抜く力」だけでなく、時には立ち止まり、振り返り、道を変える勇気を持つこともまた大切なのだ。

そして、自分自身を深く理解し、その理解に基づいた適切な努力を続けることで、初めて真の成長と成功を手にすることができるのである。

正意見と反意見を経て、正義なるものを取り払え

私たちは日々、多様な意見や価値観に触れながら生きているが、自分の考えに固執し、他の視点を受け入れることに対して抵抗を感じることが少なくない。
しかし実際には、自らの意見に反駁することが、より価値観を豊かにし、思考を柔軟にするための最良の方法であるのだ。

なぜ自分の意見に反論することが重要なのか。

それは、心の中で自分自身との対話を続ける行為だからである。

これも猫山課長がインタビューで答えてくれていたnoteの書き方の部分に似ている。

自分自身を掘り下げ、自身との対話によってのみ生み出される思考の核というものがあるのだ。

今回も「やり抜くという努力の最重要性」に対して、「本当にそうだろうか? やり抜いても報われないこともあるのではないか?」と問い直すことで、新たな思考の一端があなたに生じるだろう。

言わば欧米では主流のディベートの学習方法に似ている。

こうして異なる視点を持ち、自己反駁を行うことで、あなたはより多角的な視野を手に入れることができるだろう。

今回の『GRIT・やり抜く力』は、才能ではなく「やり抜く力」が成功の基本方程式であると説く。しかし、この考え方に対して、「すべての成功がやり抜く力だけで成り立つわけではないのでは?」と反駁することで、新たな洞察が生まれるのだ。
情熱や粘り強さだけでなく、柔軟な思考や直感が成功の要因となることもあると感じることも出来るだろう。

これは別に書かれていることに対して「反対意見で性格を悪く揚げ足を取れ」と言っているのではないことは肝に銘じて欲しい。

何かの知識を得たことで、そこに生じる自分の考えというものに敢えて反駁することは、ただの自己否定でも他者否定でもなく、思考の幅を広げるための知的探求の方法なのだ。
自分の信念を見直し、異なる視点を取り入れることで、その信念が強化されることもあれば、新しい考えが生まれることもある。

結局のところ、自己反駁を通じて得られるものは、新たな価値観の創造と言えるだろう。
異なる意見や視点を受け入れながら柔軟に考えることで、あなたの思考はより深まり、豊かになる。
その柔軟性こそが、変化の激しい社会を生き抜く力となるのだ。

だからこそ、時には自分自身の意見に反駁してみて欲しい。
特に「これが正しい」と盲目的に信じるような思念がある場合は、そこに一隻投じてみると面白いだろう。
こうして自らの価値観の幅を広げていくことが、真の知的成長につながるのではないだろうか。

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