13もの峠を越える巡礼の道〜熊野古道・伊勢路
おはようございます!
冬支度に忙しい季節となったニセコ。
峠はもう雪が降り始め、短い秋が終わっちゃいました(涙)寒いです〜
さて、先週末「熊野古道・伊勢路」を完全踏破してきました!
かれこれ5年前に始めたこの企画。
ゲストさんたちをお連れするので、一気に(お仕事休めない)歩き切ることはできないため、毎年3日ずつ歩いて、伊勢神宮から熊野三山を目指しました。
途中コロナで中断する年もありましたが、歩き切った約170kmの中で、印象に残った峠越えを振り返ってみたいと思います。
その前に…
「熊野古道」と言えば、ほとんどの方が聞いたことはあると思いますが、まずは簡単に説明しますね。
正式名称は「紀伊山地の霊場と山詣道」と言い、紀伊半島の南部にある熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を目指して、多くの人が歩いた道です。
●なぜ熊野を目指したのでしょうか?
古来、私たち日本人は、森羅万象全てのものに神さまや仏さまがいると信じられてきました。
今から1000年以上前、日本書紀にも登場する熊野周辺への自然崇拝から、熊野三山への信仰が広がり、天皇から貴族、そして庶民まで多くの人がお参りに訪れたのです。
●どんなルートがあるのでしょう?
熊野古道のルートは、まず大きく2つあります。
上皇など身分の高い人が京都や大阪から向かう「紀伊路」と、江戸時代に庶民が伊勢参りを終え、熊野を目指す「伊勢路」。
ちなみに「紀伊路」は途中から「中辺路」と「大辺路」に分かれます。
他には高野山から紀伊半島の真ん中を、ドーンと貫くように歩く「小辺路」と、
修験者が使った「大峯奥駈道」もあります。
伊勢から速玉大社までの間、全部で13の峠(正式には峠という名前じゃなく、<〜越え>や<〜坂>という場合もある)を越えてきました。
標高こそ100Mと低い場合もありますが、当時は集落と集落をつなぐ重要なバイパスだったんだなぁと思います。
途中「行き倒れ巡礼供養碑」があり、いろいろと考えさせられました。
いくつもの峠を越えて行くには、相当な体力と精神力が必要だったはずです。しかも人によっては、江戸を出発しお伊勢参りを済ませているわけだから、すでに1000km近くを歩いて来ているんですよね。
特に西国一の難所といわれる「八鬼山越え(標高627m)」では、急に容態が悪くなる人も多かったそう。
思わず「すごい!」と唸ったのは、土地の人の受け入れのこと。
村人たちは医者に診せて看病し、亡くなってしまった場合は、国元に訃報を出し仮葬までもしたそうです。
さて熊野古道といえば石畳!
これとっても滑りやすいのに、なんで使われていたのでしょうか?
答えは…
雨が多いからです。
道が流されないように、山の石を敷き詰め守ってきたのです。
面白いなぁと思ったのは、時代によって石の敷き詰め方が全然違うということでした。
鎌倉時代だと荒々しいというか、雑というか(笑)
それが江戸時代になると、石と石の隙間がなく丁寧に敷き詰められ階段状にもなっていました。
技術もさることながら、精神的な進化も感じとれます。
今ではすぐ横に国道が走り、何かあればJRもあるので、なんとかなる時代です。
そんな時代だからこそ、ゆっくり歩を進めると目だけではなく心の中に飛び込んでくる風景を感じる旅となりました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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