【小説】人を感動させる薬(5)

(前回)人を感動させる薬(4)

そのうち、エル氏の三作目の小説を映画化したいというオファーが広告代理店から出版社に舞い込んできた。

またとないオファーに出版社の経営陣は二つ返事で了承した。

たくさんのスポンサーから出資金が集められ、製作委員会が結成され、スタッフも豪華なメンバーが集められた。

ジェイ編集とエル氏の周りの環境も少しずつ華やかな方向に変化し始めた。

映画化の話を聞いてますます得意になるエル氏とは対照的に、ジェイ編集は憂鬱だった。

これまでは『人を感動させる薬』を本のインクに仕込んで読者を感動させることに成功してきたが、いざ映画館の観客を相手にするとなると、エル氏の作品の内容自体には何も感動する要素が無いだけに、馬脚を現すことになるのは間違いない。

仮に、映画が失敗したところで製作チームのせいにすればいいだけだといえばそれまでなのだが、映画製作という大金が飛び交い欲望が渦巻く華やかな世界に初めて触れてみて、だんだんジェイ編集にも欲がわいてきていた。

小説に続いて映画もヒットさせればもともと崖っぷちに立たされていたエル氏の立場は安泰となり、ジェイ編集も敏腕編集者として名をはせることができるだろう。

さらには、今をときめく著名な芸能人とお近づきになれるかもしれないし、スポンサーのおごりでいい思いもできるかもしれない。そこにはきっと、今までの自分がみたこともないような世界が広がっていることだろう。

せっかく今までにない大ヒットのチャンスをつかんだのに、ここでその流れを途切れさせてしまうのはもったいない。


そこでジェイ編集は行動に出た。

製作委員会に映画の公開方法について自分が総合プロデュースを行うことを提案したのだ。

提案の内容はエル氏の作品の公開を体験型上映システムに対応した映画館のみに限定すること、そして体験型上映システムにおける香りの演出をジェイ編集が監修することだった。

体験型上映システム対応の映画館とは、映画の内容に合わせて、座席が揺れたり、香りや熱や水しぶきが出る仕掛けとなっている映画館のことで、ケイ博士の人を感動させる薬を散布するにはうってつけだ。

本来、出版社の一介の編集者に過ぎないジェイ編集の申し出など広告代理店やスポンサー企業からなる製作委員会に聞き入れられるはずはないが、ジェイ編集は提案書を作成して製作委員会のメンバーにプレゼンして回った。

最初はジェイ編集の勤める出版社の社内から、そして広告代理店の担当から重役、そして最後はスポンサーの集まる会議で、そのすべてのプレゼンでジェイ編集はことごとく承諾をとり、ついには提案を通してしまった。

ジェイ編集にそんなことが可能だったのは、プレゼンのたびに配布した提案書のインクにこっそり仕込んだ『人を感動させる薬』のおかげだった。

このようにして、エル氏の作品は全国の体験型上映システム対応の映画館のみで限定上映されることとなり、ジェイ編集には噴霧される香料の製作チームの指揮権が与えられた。

製作チームで作られた香料は全国各地の映画館に配られ、上映中に噴霧される。

かくして、ジェイ編集は全国の映画館で『人を感動させる薬』を人知れずばら撒く準備を見事に整えたのである。


ジェイ編集の作戦は見事に的中し、エル氏の作品を上映する映画館には連日長蛇の列ができた。

長蛇の列になる理由は単純で、体験型上映システムに対応している映画館の数が限られているからというだけの話だ。

しかし、世に広く名の知られていない新人小説家の映画が行列のできるほどヒットすること自体珍しく、マスコミはこぞって取り上げた。

映画が話題となった相乗効果として小説の方の売り上げもさらに伸びていった。

最初にケイ博士からもらった『人を感動させる薬』の量が少なくなってくると、ジェイ編集はこれまでの薬の効果のほどをまとめたレポートを携えてケイ博士の研究室に足を運び、薬を補充してもらった。

(つづく)

次回 人を感動させる薬(6)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?