見出し画像

闘病記プロローグ〜50歳脳卒中で絶賛入院中〜

2022年7月6日

まだ7月に入ったばかりだというのに、まるで盛夏のような日が続いていたあの日。17:30過ぎ、いつも通り仕事帰りの電車に飛び乗った。
乗り込んだ駅では座れたものの、電車が進むにつれ人は増え気がつけば満員に。降車駅が近づき、降りる準備のため立ち上がってすぐ、”地面が揺れた”。

次の瞬間揺れているのは地面ではなく私だと気づいたが、ここで倒れるわけにいかないとフラフラしながらも必死で電車を降りる。すぐにホームの柱にもたれかかり深呼吸をした。少し落ち着けば大丈夫。

しかし落ち着くどころか身体に力が入らない。何が起きたのかわからないまま、ズルズルとゆっくり崩れ落ちていく。「あなた!大丈夫?!」年配の女性の叫びにも似た問いかけに朦朧としながら「駅員さんを呼んでください」とお願いし、駅員さんが駆けつけた。「頑張るのよ!」女性の励ましに見送られながら車椅子で地上に出て救急車を待つ間、いつも見慣れた自宅最寄駅の景色が全く別世界のように映った。

程なくして救急車が到着し、幸い2件目で緊急搬送先の病院が決まった。新型コロナの感染者数が再び増加傾向にある中、迅速に搬送されたことは、今考えたら不幸中の幸いだったのかもしれない。
救急車の中で隊員に色々と質問された気がするが、薄れゆく意識の中で自分の名前を答えるのがやっとだった。いざ病院に到着し、色々な検査に回されるという時に意識を失い、次に目覚めた時は病室のベッドの上だった。

家族との再会

病室のベッドの脇に両親と子どもたちの顔がある。皆泣き腫らした目でこちらを見るが、私は言葉が出てこない。「生きててよかった…」母の一言に事の重大さを悟った。父は「大丈夫だ」とだけ言い、子どもたちは涙をいっぱい溜めて私の体をさすった。コロナ禍のためもう当分面会はできないことが告げられるとともに、その日もほんの少しの時間で打ち切られた。

後から聞いた話によると、家族と対面したのは倒れた翌日で、当日は行方が分からなかったらしい。ただ覚えてはいないのだが、夕刻実家に私の携帯から電話があり、父が出ると何も言わず切れたと言う。何度鳴らしても出ない携帯。待てど暮らせど帰ってこない私を案じ、翌日母が警察に行き家出人捜索願を出した。事件の可能性も考え警察官と自宅に戻った際、再び携帯から着信が。電話の主は私ではなく病院の職員で、私が倒れて運ばれた旨を伝えられた。

右半身が動かない

とにかく眠かった。自分が置かれた状況だけはわかったが、何も考えることができず頭はぼんやりとし寝たり目覚めたりの繰り返し。
そして身体の右半身が不思議な感覚に包まれていた。右手、右足が全く動かない。ピクリともだ。まるで右半分だけなくなってしまったような、存在しないような感覚に襲われる。点滴の針が刺さった左手で右手に触れてみるが、触った感触さえ感じない。
顔はかろうじて感覚はあり動くが、右半分だけ痺れがひどく、まるで歯医者で麻酔した時のような違和感がある。

ああ、右半身が麻痺してるのか。
普通ならだいぶ絶望的な状況だと思うが、不思議と絶望的な気持ちにはならなかった。なってしまったものはしょうがない。なんとかなるでしょう。
元来の楽観的な性格と脳出血の後遺症で、色々と考えたり悩んだり落ち込んだりする余裕もないまま時間が過ぎていった。

リハビリが始まる

入院当初はベッドから起き上がることもままならず、食事も取れず栄養は点滴から、お小水はバルーンという管で。オムツも履いていた。つまり寝たきり。言葉も話せない。看護師さんの問いかけに頷くのが精一杯。時には急な吐き気に襲われ嘔吐を繰り返した(食べていないので出てくるのは胃液だけ)。

なのに毎日病室を訪れる人たちがいた。そして意識がまだ朦朧としている私に熱心に話しかけながら、脚や手をマッサージしたり動かしたりする。私はというと、その最中にも意識が遠のき目を開けているのがやっと。
その人たちがリハビリの先生だと認識したのはだいぶ経ってからで、とにかく寝ていたかった私にとって迷惑な存在だった。

あとからリハビリには理学療法、作業療法、言語聴覚療法の3つがあり、発症後できるだけ早い段階から受けるのが回復の鍵だと聞き、合点がいった。以降、リハビリの先生たちにはとにかくお世話になることになる。あの時は迷惑だなんて思ってごめんなさい。

一生忘れられない味

入院して最初の1週間は何も食べられなかったのだが、ある日言語聴覚士の先生がアイスなら食べられるんじゃない?と聞いてきて、スーパーカップを持ってきてくれた。
自分ではもちろん食べられないので、スプーンですくって先生が食べさせてくれる。1口目が口に入ってきた時の感動たるや!こんなに美味しいものがあるなんて!
いや、普通にコンビニでも売っているスーパーカップ(ミニサイズ)なんですけどね。死にかけた私にとっては格別な味。一生忘れない。一生忘れられない。

初めての病院食

アイスも食べられたし(完食しました!)ということで、食事も摂ってみましょうということに。お昼ご飯が運ばれてきて、言語聴覚士と作業療法士の先生が見守る中、1週間ぶりの食事を食べることになった。

蓋を取ってもらい、動く方の左手でフォークを握る。おかずを口に運ぶのだが、フォークは空を切り口には何も入ってこない。先生に「取れてないよ。おかずここよ!」と言われ、ハッとする。
繰り返すこと数回。ようやく1週間ぶりの食事が口の中に入ってきた。
ああ。美味しい!なんて美味しいんだろう。
病院食の和食。確かお魚と煮物だったが、1週間ぶりの食事は本当に美味しかった。

血が吸収される

入院から約2週間後の7月19日。
病室でリハビリの先生を待つ私はまるで別人だった。
「おはようございます!」ハッキリと挨拶する私に驚く理学療法士の先生。
「どうしたんですか?!連休中何が起きたの??」
無理もない。7月19日は土日月曜の連休明けで、連休前金曜日まで私は終始ぼんやりとした様子で焦点も定まらず、言葉もろくに発することができなかったのだから。

主治医の医師に聞いたらば、破れた血管から流れ出した血が吸収されたのだろうとのこと。その後CTを撮影したところ、確かに出血部位はかなり小さくなっていた。ただしまだ脳がいわゆる腫れた状態なので、疲れやすかったり言葉が出にくかったり、考えがまとまらないという状態は続いていた。

それでも連休を境に色々なことを思い出した。自分の誕生日、子どもたちの誕生日、スマホの暗証番号、LINEの送り方、、、などなど。
ちなみに私の誕生日は7月13日、入院1週間後。そして今年は50歳節目の年。病院で50歳を迎えるとは!

長い長い入院生活のはじまり

7月6日に突然倒れ始まった入院生活も今日で171日目になった。
今日は2022年12月25日。クリスマス。季節も夏から秋、そしてすっかり冬に。

最初に入った急性期病棟は8月15日で移動し、今は回復期リハビリテーション病棟にいる。リハビリには病気の種類ごとに期限が設けられており、脳血管障害で150日+高次脳機能障害30日の合計180日が私に与えられた期間だ。

2月10日がリミットで、絶賛リハビリの毎日を送っている。残り1ヶ月半となった今、備忘録代わりにそしてリハビリも兼ねてこれを書いている。
何せ右手が麻痺しているため、タイピングもままならないが、思い出す限り書いていけたらと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?