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あるがままでいるほかないのです

すべてが赦されている世界

コースの観点から言えば、この世界にいる私たちは分離を信じているがゆえに、誰もが「自分自身は罪人だ」と信じていると言うことができます。

この世界にいる私たちの誰もがその深い意識層では自分自身を欠けた存在、あるいは至らない存在だと信じているということです。

そして、さらに言えるのは、そのことを秘密裏にしようとしている、ということです。

それによって、私たちは、善人や、良き人、優れた人になろうとします。

罪を犯したと信じながら、善人を装うことで自分の無垢性(無罪性)を証明したいわけです。

いわゆる自分で仮面の自己概念(T-31.Ⅴ)を構築しようとするわけです。

それが自我がしていることであり、私たちがしていることだといえます。

自分は自我になっておきながら、「自分は自我じゃない」と言い張ろうとするわけです。

私たちは、そうすることでなおさら自分は自我であろうとしている、ということにまったく気づいていません。

ですから、コース学習者の私たちがしていかなければならないのは、自分は自我になってしまっていること、さらには、自我であり続けようとしていることに気づいていくということです。

いい人になろう、良き人でいよう、神聖な人でいようとする必要などないということです。

だからといって、わざわざそうじゃない人になろうとする必要もありません。

ありのままでいるしかないということです。

自我が問題なのではありません。

自我を実在化させようとすることが問題なのだということです。

そう、自分で作り上げた自己概念(自我)を咎めることなく、その自分にただ気づいていなさいということです。

それがたとえニセモノの自分(自己概念/自我)であろうとありのままに見ていくこと、それが私たちに求められていることです。

ニセモノの自分をどうにかしようと修正する必要もなければ、向上させようとしたり、変えようとする必要などないということです。

その自分(自我)を受け入れるということです。

その自分でいる、以外ないのです。

ただ在る、しかないのです。

そのようにして自分(自我)を赦していくとき、すべてがあるがままで赦されている世界がそこあることを知るでしょう。

そして、

私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。(W-p1.137)

奇跡講座/中央アート出版社

というその言葉の意味を理解するようになるでしょう。


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