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自分の中が空っぽであるとわかるとき、他者の中も空っぽであるとわかります

「夢を見ている者」の自分を自覚していく

ふだん、私たちは、「私」は存在していると思っています。

それに対して、非二元の教えに触れていくとき、「私はいない」ということを学んでいくわけです。

もちろん、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)のテキストやワークブックでも、以下のような表現で述べられています。


あなたには見るための目も聞くための耳もなく、握るための手もない導くための足もないことを、喜びなさい。(T-24.Ⅴ.5:1)

奇跡講座/中央アート出版社

しかし、肉体に知覚できる光景や音は無意味である。肉体には見ることも聞くこともできない。(T-28.Ⅴ.4:4-5)

奇跡講座/中央アート出版社

これまで五感がどれほど頻繁に間違ったことを伝えてきたかを思い出せるというのに、五感が伝えることを細部に至るまで信じているというのは、さらに奇妙なことである。あなたはどうして、そのようなものをこんなにも盲目的に信用するのだろう。(W-pⅠ.151.2:4-5)

奇跡講座/中央アート出版社


ようするに、私たちは何も見ていない、何も聞いていない、何もしていない、何も感じていない、何も考えていない、ということです。

コースはそのことを私たちに教えてくれているのです。

それがどういうことを意味するのか?

というなら、

「私」というもの自体が幻想だということです。

「私」という個別性、特別性など存在してはおらず、それはつまり、自分と思っている自分は非実在なのだということです。

私たちはコースの学びと実践を通して、その個別の自己(小文字のself)の非実在性を受け入れていくことが求められているのです。

そう、私たちは、「すべてが虚偽/無である」と見ることのできる視点からの知覚(ヴィジョン)によって、その真実を体験的に学んでいくことになります。

そして、その知覚の仕方こそが、「奇跡」「赦し」と呼んでいるものです。

個別の「私」などいないのだと認識されていくならば、自分の外側に存在しているかのように見えている他者の中にも人格(パーソナリティ)などない、ということが明らかになっていきます。

自分の中が空っぽだとわかるならば、当然、他者の中も空っぽだと。

「私」も「他者」もいないし、ここには何もないのだ、と。

(※ノンデュアリティのスピリチュアリティでは、それを「行為者はいない」という言い方をしています。)

自分と思っている自分も、そして他者も、「夢を見ている者」によって作り出された影(投影)にしかすぎないと体験的に理解されていくようになっていくということです。

コースの学びと実践が深まっていくとき、そのような知覚へとシフトしていくということを知っておくとよいでしょう。

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コースをもっと深く理解していきたい方へ。コースの学びが進んでいくとどうなっていくのか?というテーマで、もりG自身が体現した実録レポートとして、一般には公開できないDeepな話が書かれているコラム集です。

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