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もし今あなたが絶望しているとして、それは決して驚くべきことではありません

私たちは絶望の夢を見ているだけである

この世界にいる私たちは、いわば、みんな誰もが絶望していると言うことができるでしょう。

というのも、一番分かりやすい例でいえば、私たちは誰もが、自分はいずれ死ぬと分かっているわけです。

そのことを分かっていながら、それでも、はかなきこの人生を生きようとしているわけです。

それは、別に悲観的になって、そう述べているのではありません。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えから見るならば、この世界自体が神(天国)から離れたという想念に基づいて作られた(夢の)世界なわけで、その(夢の)世界の中にいるわけですから、私たちは絶望していないわけがないということです。

私たちは、自らそれを望んでこの世界の夢を見ているということです。

自覚しているにせよ自覚していないにせよ、誰もがみな絶望しているということです。

そして、私たちは何をしているか?

というなら、

その絶望をこの世界のもの(実相の代替)で紛らわすことに躍起になっていると言うことができます。

私たち誰もがこの人生の中で幸せ、希望、光を追い求めて生きているのは、そいうことです。

ただし、幸せ、希望、光だとして追い求めているそれらのものがすべて偽りの一時的な慰めにしかなり得ないということに私たちはまったくと言っていいほど気ついていません。

それが、この世界で私たちがしていることです。

まさに、希望のないところに希望を探しているようなものです。

それは、絶望以外の何ものでもありません。

私たちは真の希望の光をまったく忘れた状態なっているということです。

それを、仏教では「無明」という言葉で表現しています。

自分が何者なのか?
自分はどこにいるのか?
自分は何をしているのか?

そのことをすっかり忘れた(解離した)まま、偽りの幸せ、偽りの希望、偽りの光という代替で紛らわすことに躍起になっている、それが私たちの状態であるわけです。

そこには希望もなければ、救いもありません。

あるのは絶望、虚無、喪失、孤独、といったものです。

欠乏、欠落した感覚から逃れられることはけっしてありません。

私たちはその欠乏を埋め合わせるためにあくせく生きている、、、それを私たちは「人生」と呼んでいます。

この世界にいる誰もが本当は絶望していながら、それでも、私たちは外側の世界の何かが変わればその絶望から逃れることができると信じています。

この世界のもので欠乏を埋めることができると、この世界に希望があると、そう信じています。

たとえそれがどんなに叶わなくとも、「次こそは」「いつかは」と信じて生きています。

そして、結局、私たちは絶望という経験をすることになるのです。

何度も申しますが、悲観的、否定的になりましょうと云っているのではありません。

私たちはこの世界の夢の中で何をしているか?そのことについてしっかり自覚/認識していきましょう!ということです。

この世界は絶望から気を紛らわすために作り出したにもかかわらず、それを「素晴らしき人生」などと呼んでいるわけです。

もし、ありのままに見るならば、つまり、正気の思考体系から見るならば、私たちがこの世界でそういうことをしているということが分かります。

まともに見るならば、ここには希望も光もないことも、分かります。

私たちは絶望の夢を見ているだけです。

それが、真理です。

ただし、コースが私たちに教えていることは、そこで留まるものではないということです。

私たちにとってうれしいニュースは、この世界にいる私たちがしていることのその滑稽さ、そして愚かさを自覚/認識するならば、つまり、私たちがそのことを悟るならば、そのときこそ本当の希望の光がもたらされることになるのだということです。

真実を知るならば、もはやまったくちがう違う知覚がもたらさせるわけで、それこそが希望の光となっていきます。

いわゆる、正しい心(正気)の部分が発動するということです。

その正しい心(正気)の部分とは、正しいものの見方を覚えている内なるもう一人の自己のことであり、それをコースでは「聖霊」と呼んでいます。

聖霊(正しい心)と共に見るなら、私たちは自分で希望のない世界、つまり、絶望の世界の夢を望んで見ているのだということが明らかになります。

自分で自ら望んで、私たちはこの世界の夢を見ているのだと。

私たちはそのことをすっかり忘れて、ただ単にこの世界の被害者になりきっているだけということが分かってきます。

この世界には希望も光もないとあなたが悟る(思い出す)とき、同時に、真の希望の光があることが思い出されるということです。

つまり、「絶望の世界そのものがすべて夢(幻想)のドラマにしかすぎない」と知っている真の自己(真理の光)が見い出されていくということです。

そうなるとき、希望も光もない場所で、それでもどこかに希望があると信じてさまよっていることがどれほど無意味で、滑稽なことか!が明らかになるでしょう。

そのことを認識する(悟る)ことが、イエスや聖霊が私たちに求められていることだといえます。

もし今あなたが絶望しているとしたなら、それはけっして驚くべきことではありません。

私たちは、今、絶望の夢を見ているだけなのです。

そのことを悟ることがないかぎり、私たちはこれからも絶望の夢を見続けることになります。

そして、何よりも忘れてならないのは、自分で望んでそれを体験しているのだということ。

つまり、自分はその被害者なのではないということです。


私は自分が見ている世界の被害者ではない。(W-p1.31)

奇跡講座/中央アート出版社


じつは、自ら絶望したくて、私たちはこの世界の夢の中ににいるのだということです。

もしそのことを完全に悟るなら、本当はここが天国であることを思い出すことでしょう。

そう、それだけが、私たちにとって本当の希望の光なのだということです。


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