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見ないかぎり、直視しないかぎり、取り消しはなされない


私たちがしなければならいのは「見る」こと

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践で私たちがしていかなければならないのは、「見る」ことをしていくということです。

何を見るのか?というなら、内側にあるものを見ていくということです。

逆に、「見る」ことをしないとき、それを「否認、抑圧、隠蔽」と呼び、私たちは見ないことによって実在しない幻想を保持し続けていると言うことができます。

コースでは「聖霊と共に見る」という言い方をしますが、何を見るのかというと、それは自我(幻想)を見るということです。

つまり、「見る」とは、

=「直視する」「正視する」ということであり、
=「自覚する、認識する、気づく、認める」ということであり、

それが、「聖霊のもとに運ぶ」ということだと知っておくと良いでしょう。

さらにいえば、見ることしていくことによって観察者になっていくわけですが、それがいわゆる悟り系のスピリチュアリティで呼ばれている「アウェアネス(気づき)」だと知っておくと良いでしょう。

なぜ、私たちは見る(直視する)ことをしていかなければならいのか?

というなら、

見ないかぎり、つまり、直視しないかぎり、幻想の取り消しはなされないからです。

そのことについて、コースでは以下のように述べています。

幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない。 見ないでいることにより、幻想が保護されているからである。(T-11.5.1)

奇跡講座/中央アート出版社

実際に実践してみると分かってくることですが、自分はまったく見ようとしていないということが自覚/認識されるようになります。

いわゆる「見る」ということがそう簡単ではないということも、そして、「見る」ことができるようになるには学びと訓練を要するということも分かってくるわけです。

それが何を意味するかというと、つまるところ、その自分は自我になってしまっているということです。

覚えておかなければならないのは、自我は見ないことによって幻想を保持しようとするということです。

コース学習者の私たちは、その自我に気づいていくこと、そしてその自我を咎めずに見ることが求められているのです。

そうしていくことで、ますます自我(の力動)を自覚/認識できるようになっていきます。

自我(の力動)とはどういうものか?

というなら、

もし内側に戻って「見る」ならば、すべてが虚偽であることが判明するわけで、自我はそれを恐れているのです。

もしそうなるなら、この世界はたんなる「影」であり実在しないことが明らかになってしまうだけでなく、自分だと信じているこの「自分」も実在しないことが明らかになるからです。

自我はそうなることを一番恐れています。

そして、私たちはその自我と今や同一化してしまっています。

その自分(自我)は外側の世界(形態)を知覚することによって、すべての動揺を外側の世界のせいにして、内側を見ないようにしているわけです。

それを、投影と呼びます。

私たちはコースの学びが進んでいくにつれて、見ないように、直視しないように、、、と、外側に投影する方向へ突き動かされている自分を、ますます認識するようになります。

自我はそうすることで内側にある「恐れ」を保持しようとするわけですが、その恐れとは、じつは、神の愛、真理に目覚めることに対しての恐れであり、その恐れこそが愛の現存を自覚できなくしている障壁なのだということです。

そう、私たちはその障壁を取り消していくことがコースの実践で求められていることなのです。

愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、たしかに目指している。(T-In.1:7)

奇跡講座/中央アート出版社


忘却のベールを超えて

上記でも述べましたように、私たちは「見る」「直視する」ということが実践で求められているということです。

それは、自覚する、認識する、気づいている、というふうにも言い換えられます。

何を見るのか?というなら、愛を阻んでいる障壁(ブロック)です。

ただし、じつのところ、それこそが幻想であるにもかかわらず、私たちはその障壁(ブロック)障壁が取り除かれることをひどく恐れているいます。

ようするに、私たちは神の愛を、目覚めることをひどく恐れているということです。

なぜなら、その障壁が取り除かれるなら、この自分と思っている「自分」が非実在であることが明らかになるからです。

もしあなたが「自分は神を恐れてなどいない、目覚めることなど恐れていない、神を恐れるわけがない」と思っているとしたなら、それはまだあなたは見ていない(自覚/認識していない)と言うことができます。

私たちはどれだけ神の愛を恐れていることか!

この世界の夢を見続けていることがそういうことなのだということを私たちは自覚/認識する必要があるのです。

なにせ、そういうことは無意識の忘却のベールによって隠されているので、コースを学んでいる私たちはその忘却のベールを持ち上げて明らかにしていくことが求められているのです。

私たちは無意識の忘却のベールによって隠されているものを明らかにしていく必要があるわけで、そのためには、自我について、自我の思考体系について、自我の力動論について、私たちは学ぶ(知る/理解する)ことが必須だということです。

さらには、私たちは「恐れ」についても理解する(知る)必要があると、コースでは述べられています。

恐れとは何であるかを学ぶことにより、あなたは初めて不可能なものから可能なものを、真実なるものから偽りのものを、区別できるようになる。(T-11.Ⅴ.11:2)

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「恐れ」とは、自分ででっち上げた妄想にしかすぎません。

しかも、それは愛の現存を自覚できなくするために作り出されたものということです。

ただし、私たちは自我と同一視してしまって、今や「恐れ」を信じてしまっていて、実在させてしまっています。

ですから、私たちがしなければならないのは、その恐れ(幻想)を聖霊のもとに運ぶこと、もしくは、聖霊と共に見ることが求められているのです。

それが、「自我(幻想)を直視する」という実践です。

私たちは、自分でその恐れをどうにかしようとしてしまいがちになりますが、自分では何もしません。

赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。・・・ただ見て、待つのみであり、判断はしない。(W-pII.1.4:1-3)

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私たちがしなければならないのは、自分の内側に正直になって、内側にあるものを明らかにしていくことだけです。

それが、「見る」「直視する」ということです。

聖霊(正しい心)と共に見るとき、恐れは実在しない、すべては虚偽だということが明らかになります。

恐れがそこにあるならば、その恐れを直視していかないかぎり、恐れ(幻想)が取り消されることはありません。

むしろ、「見る」ことなしに、直視することなしに、どうやって私たちは「恐れ」が幻想であることを理解できるというのでしょう。

幻想を保護せずに直に見つめること以外にどのようにして幻想を一掃できるだろう。だから恐れてはならない。あなたがこれから見ることになるのは恐れの源であり、あなたが学びはじめているのは、恐れは実在しないということだからである。(T-11.Ⅴ.2:2-3)

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恐れは実在しないということを理解していくためには、私たちはそれを見なければならない、直視していかなければならないということです。

コースはそのような霊性の道なのだということを肝に銘じておきましょう。


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