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水族館でぼんやり考えた「私たちはどう生きるか」

週末、大阪にある水族館「海遊館」へ行ってきた。

どこかお出かけしたいね!
水族館よくない?
「海遊館」行くか!
会話ではなく、全て私の独り言。

車で行くか、乗り鉄オタク長男のために電車で行くか悩んだ末、時短と楽さを優先して車で向かった。
我が家からは高速を使って1時間くらい。

入り口で、家族写真を撮ってもらうサービス。
買うと1500円だけど、小さいカードならタダでもらえるヤツ。

ドケチ夫婦、特に夫の財布の紐はカッチカチなので
たいてい「別に買わなくていいか!」
ってなるんだけど、
「あら、これ、珍しくいい笑顔じゃん」と私が夫に言うと、
「じゃあ買おう」と即決。へぇ!

ジンベイザメとエイ

水槽内で悠然と泳ぐ彼らを見ながら、

「なに考えてんだろうね。退屈しないんかな」子どもたちに話しかける。

「退屈だよ」即答する3歳長女。

「退屈って…泳ぐのが楽しいんじゃない?
食べ物探すのに忙しいだろうし、退屈なわけないじゃん。あとはピタゴラ装置も作ってるかもしれないからね」
現実とメルヘンを行き来している6歳次男。

黙っている9歳長男。

三者三様だ。

さかなクンの番組を録画するくらいは魚好きな次男が、やたらと張り切っちゃって、生き物の名前を次々と教えてくれる。
へぇ!結構覚えてるんだ。

もし私が、海の住人になったら、どう過ごすんだろう。

ちなみに私には、彼らが、ただ生きるために食べたり、ただ、生き残るために生きてるように見えている。

そんな人生、耐えられない。

自分だからできることをやってみたいとか、
この気持ちを誰かに聞いてほしいとか、
人と人を繋ぎたいとか、
収入を得たら、靴を買いたいとか、
SNSとか、本を読みたいとか。

そういうことを生きる活力にして楽しく生きている私が、いきなり海で暮らすことになれば、確かにサバイバル生活に退屈はしないだろうが、死ぬか生きるかの生活に疲弊して、ただ、岩に隠れて、死んだように生きながらえようとするんじゃないか。

それともニモの世界のように、
危険を顧みずに何かに挑戦したり、
出会いや再会を喜んだりして、
成長や生きる喜びみたいなものを感じている可能性もあるんだろうか。

年老いているのか?しわしわのマンボウもいた。

明らかに他の子と肌の質感が違った

若者たちの中で、どんな立ち位置なんだろう。
生き字引として敬われていてほしい。

1匹1匹見てたら、怪我しながら泳ぐ魚が何匹か

そんな健気な命を横目に、
「今日このあと回転寿司に行きたいな」などと不謹慎なことを思った。
長男と次男も同じ気持ちだったらしい。

面白い催しがやっていた。

この問いに吸い寄せられる
自分を自分たらしめるものとは?
視点転展。ネーミングが素敵

結局この日、タイミング的に回転寿司に行くことはできなかったが、それでよかった。

海のいきものたちの生活を覗かせてもらっておいて、さらに食そうなんて人間のエゴが過ぎる。

私たちは、楽に生きようと思えば楽にも生きられるし、
むざむざと茨の道を選ぶこともできる。

その選択肢の多さに、私たちは疲れてしまっている気もするが、茨の道の向こう側に思いを馳せ、命まではかけずに心ときめくことができるのは、人間だけなんじゃないかと思う。

それならば、やってやろうよ。
人間として生まれた今生の思い出に。

そんなことを帰りの助手席で寝落ちする寸前に思った。


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